すたのピンコロ日記

旅をして、美味しいものを食べて、毎日を楽しく!

奥の細道29   二本松

二本松城
嘉吉年間(1441~1444)に奥州探題となった
畠山満泰によって築城された二本松城は時を経て、
寛永20年(1643)初代二本松城主・丹羽光重によって
近世城郭として整備された。
十万石の大藩であった二本松は、戊辰戦争では
軍の要衝であり、激しい攻防が繰り広げられ、
二本松少年隊の戦死などの悲話を残して落城した。
箕輪門は城跡の風格を示すシンボルとなっている。
春には1700本もの桜が咲き乱れ、城全体が
霞に包まれたような景色をみせる事から「霞ヶ城」と呼ばれている。
13枚です。クリックして下さい
<<二本松城
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戒石銘碑
寛延2年(1749)二本松藩庁の前に、
藩士登城の際その戒めとするため
藩主丹羽高寛が、藩儒・岩井田昨非に命じ大石に書かせた。
「爾が棒 爾が禄は 民の膏民の脂なり
       下民は虐げ易きも 上天は欺き難し」

議員や官僚・公僕の給料は、国民の汗と脂の賜物なんだから、
国民を欺くかないように!って事かな?
マウスオン2枚です 
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二本松少年隊
慶応4年(1868)7月、戊辰戦争の最中、
二本松藩大半の兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、
城内・城下は空虚同然であった。
この緊迫した状況の下、少年達の出陣嘆願の熱意に
藩主は止むなく出陣許可を与え、13歳から17歳までの
少年62名が出陣、7月29日、城内への要衝・大壇口では
隊長・木村銃太郎率いる少年25名が果敢に戦ったが、
正午ごろ二本松城は炎上し落城した。
大義のために戦う少年隊士と、我が子の出陣服に
藩主丹羽氏の家紋・直違紋(スジカイモン)の肩印を
万感迫る思いで縫い付ける母の像
マウスオン・クリック、3枚です 
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大隣寺
第二代・丹羽長重が初代・長秀の菩提を弔うため、
寛永4年(1627)建立した。
寛永20年(1643)三代・光重は、白川から二本松に国替になり、
同年冬、大隣寺もこの地に移った。
現在の本堂は文化8年(1811)に建替えたもの。
戊辰戦争直後は、二本松藩庁の仮事務所や藩校にも使用された。
境内には戊辰戦争で幼い命を散らした二本松少年隊の墓がある。
マウスオンして下さい。

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  1. 2010/10/30(土) 14:50:41|
  2. 奥の細道
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奥の細道28   黒塚

観世寺
安達ヶ原に棲み、人を喰らっていたという「安達ヶ原の鬼婆」の
伝説がある。境内には鬼婆の住み屋であった「岩屋」や鬼婆像、
血で染まった包丁を洗ったという池、「芭蕉の休み石」などがある。
近くの川の傍には鬼婆を埋めたとされる「黒塚」がある。
マウスオン2枚です 
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クリック9枚です。
<<本 堂
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4-1 4-2

マウスオンして下さい。


画1

画2

画3

画4

画5

鬼婆を埋めた「黒 塚」
マウスオン2枚です 
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所在地・・二本松市安達ヶ原 4-126 続きを読む
  1. 2010/10/28(木) 10:58:37|
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奥の細道27   郡山

安積国造神社(アサカクニツコジンジャ)
古来より郡山の総鎮守として市民に親しまれている神社で
第13代・成務天王5年(135)の創建
後に坂上田村麻呂が戦勝祈願したところでもある。
安積山を開いた此止祢命四柱を祀っている。
安積国造神社2
安積国造神社3
安積国造神社4

また儒学者・安積艮斎(アサカゴンサイ)の誕生地で、
境内に銅像と石碑、積艮斎記念館がある。
安積国造神社安積艮斎(アサカゴンサイ)の像
安積艮斎
所在地・・郡山市清水台 1-6-23


安積山(アサカヤマ)
幻の花、ハナカツミを探し求めて芭蕉が訪れた地万葉集以来、
歌枕として知られる地名で、多くのひとに愛され、詠み込まれて来た。
郡山市では、アヤメ科のヒメシャガを「ハナカツミ」とみなし、
昭和49年に市の花に指定した。
安積山
安積山1
安積山2
安積山3
安積山4

山ノ井清水も僅かに残っている。
山の井清水
所在地・・郡山市日和田町安積山
  1. 2010/10/26(火) 10:59:27|
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奥の細道26   須賀川

乙字ヶ滝
阿武隈川にかかる乙の字の形をして流れ落ちる滝で
水かさを増すと100mの川幅いっぱいに落下する様が
小ナイヤガラの滝とも言われ、日本の滝百選に選ばれた。
江戸時代、阿武隈川の舟運の最大の難所といわれた。

昔は石河の滝と呼ばれていた。
乙字ヶ滝1
クリック・5枚です。
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乙字ヶ滝7

芭蕉は郡山に向かう途中に、この敵を訪れて
「五月雨の 滝降りうづむ 水かさ哉」と詠んでいる
乙字ヶ滝9
芭蕉曾良
乙字ヶ滝10
所在地・・福島県岩瀬郡玉川村
  1. 2010/10/24(日) 10:00:04|
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奥の細道25   須賀川

神炊館神社(オタキヤジンジャ)
全国でも唯一の社名は、御祭神である建美依米命が
新米を炊いて神に感謝したといわれている。
マウスオン・クリック、3枚です 
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天正17年(1589)に須賀川城が落城した後、
慶長3年(1598)上杉景勝が会津百二十万石に移封されると、
新しい町造りを推進、その時に一の鳥居として寄進された。
社殿は数度の火災で建替えられているが、
この鳥居だけは当時のままである。
神炊館神社5

奥の細道・道碑
マウスオン2枚です 
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所在地・・須賀川市諏訪町 45-1



十念寺
文禄元年(1592)善竜常人の開山。
芭蕉が須賀川滞在中に参詣した。
「田植唄」の句は、白河の関を越えた感想を
等躬に尋ねられて詠んだといわれている。
東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉の墓がある。
十念寺
本 堂
十念寺 本堂
鐘 楼
十念寺 鐘
十念寺・

樹齢五百年、高さ5m、胸高周囲340cmのいちいの木
マウスオン2枚です 
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所在地・・須賀川市池上町 101



  1. 2010/10/22(金) 09:00:45|
  2. 奥の細道
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奥の細道24   須賀川

須賀川城跡
天正17年(1589)伊達政宗は、会津野川城(若松城)を
攻撃しようと、密かに岩瀬地方西部の諸将に密書を遣わしていた。
この時の須賀川城主は、政宗の伯母でもある
二階堂盛義の後室・大乗院で気丈な女城主だったため、
伊達政宗に降伏する事をこころよしとしなかった。
政宗の計略の憤った二階堂の家臣や領民たちは、
10月10日の夜、手に手に松明を灯し
町の東の丘に集まり、そこで決死の覚悟で城を守ることを決意し、
城主である大乗院に決戦を進言した。
10月26日、大軍を率いる政宗と
須賀川勢は、釈迦堂川を挟んで壮絶な戦いを繰り広げ
城・本丸の風上にあった長禄寺に火を放たれ、
町中が火の海と化し、須賀川城は多くの家臣とともに
悲壮な最期を遂げた。文治5年(1189)から400年の間、
南奥羽の雄として権勢を誇った二階堂家・須賀川城は、
ここに落城した。

翠ヶ丘公園
翠ヶ丘公園
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三千代姫堂
須賀川城主・二階堂家は鎌倉幕府の重臣として鎌倉にあり
室町時代の文安元年、二階堂遠江守為氏は、須賀川に下向したが
城代の治部大輔は入城を妨害した。
そのため家臣の取り計らいで両家和合のため治部の娘・三千代姫は
為氏に嫁いだが、須賀川城をめぐる夫と父方の争いに進退きわまり
人問わば 岩間の下の涙橋 流さでいとま 暮谷沢とは
の辞世の歌を詠み、武家の女性ゆえ 僅か15歳を一期として自刃し
乳母や付侍も姫に殉じた。
三千代姫堂

二階堂神社 
本丸があった所
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所在地・・須賀川市宮先町 78

元禄2年(1689)芭蕉と曽良は、旧暦4月29日、
須賀川宿の相良等躬宅に八日間滞在した。
芭蕉
句1

相良1
相良等躬の像
相良

可伸庵跡 
可伸庵跡3
芭蕉句碑 「世の人の 見付ぬ花や 軒の栗  芭蕉」
可伸庵跡2
  
長松院
相良等躬の菩提寺、城の空堀の一部が残されている。
マウスオン・クリック、3枚です 
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相良等躬の墓
長松院3 長松院4
所在地・・須賀川市諏訪町 88
  1. 2010/10/20(水) 11:36:19|
  2. 奥の細道
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奥の細道23   白河

白河小峰城
寛永9年(1632)江戸時代の初代藩主丹羽長重が
平山城として改築した。
その後、戊辰の役で落城し城郭は焼失したが平成3年(1991)から
当時の絵図に基き忠実に復元した。
建材には戊辰戦争の激戦地であった稲荷山の杉を使用しているため
当時の弾痕が柱や床板にそのまま残されている。
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マウスオン2枚です 
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所在地・・白河市郭内
  1. 2010/10/18(月) 10:37:22|
  2. 奥の細道
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奥の細道22   白河

戊辰の役古戦場跡
奥州諸藩鎮定に向かった薩長大垣などの西軍と、
これを迎え撃つ会津・仙台・棚倉などの東軍が
激しく戦った場所で、両側に会津藩兵戦死の墓碑と
松平容保筆の鎮魂碑ほか多くの戦死者を弔う石碑がたっている。
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戦死碑
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マウスオン2枚です 
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仙台藩士戊辰戦没之碑
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女石追分
右は奥州街道、左が会津に向かう白河街道
女石の追分

南湖公園
城郭は寛政12年(1801)白河藩主・松平定信が新田開発と
灌漑用水を目的として造り上げた人造湖である。
身分制度が厳しい時代に、土民共楽の地にしたいという
願いがこめられ庶民に開放された我が国最古の公園といわれている。
南  湖
  クリック・5枚です。
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松平定信(白河楽翁)公を祀る 南湖神社<
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南湖6


脇本陣・蔵座敷
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  1. 2010/10/16(土) 11:38:18|
  2. 奥の細道
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奥の細道21   白河

白河の関
勿来(福島県いわき市)・念珠(山形県鶴岡市)とともに
奥州三古関の一つ。
奈良・平安時代に蝦夷の南下を防ぐ砦として設けられたといわれ
後に廃関となり、辺境の歌枕の地として多くの歌人に詠われている。
クルック・6枚です。
<<関所入口
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白河神社
白河の関を境内とし、相撲二所の関部屋、発祥地として知られる
白河神社

土俵跡

マウスオンして下さい。



古歌碑
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奥の細道の碑
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樹齢八百年の「従二位の杉」
マウスオン・クリック、3枚です 
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芭蕉と曽良
{風流の 初やおくの 田植うた  芭蕉」
「卯の花を かざしに関の 晴着かな  曽良」

芭蕉曾良
所在地・・白河市旗宿関ノ森 120
  1. 2010/10/14(木) 08:49:24|
  2. 奥の細道
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奥の細道⑳   白河

境の明神
下野と陸奥の国境を挟んで境の明神が二社並列している。
古代、国境には玉津島神社・祭神は衣通姫(そとおりひめ)と
住吉神社・祭神は中筒男命(なかつつおのみこと)を祀るのが
慣わしだったという。両神とも和歌の神として知られ、女神は内、
自らの国を守り、男神は外、他地方を抑えるという考えがあるという。

「奥の細道」においては、みちのく路の第一歩を記した所であり
「風流のはじめや奥の田うえ唄 はせを」の句碑が立っている。
下野(栃木)側の玉津島明神
境の明神
マウスオン2枚です 
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下野と陸奥(栃木と福島)の県境
マウスオン2枚です 
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陸奥(福島)側の住吉明神
マウスオン・クリック、3枚です 
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和算額
和算とは、明治以前の数学との事で、奈良時代に中国から移入され
発達したという日本独特の数学       詳しくは⇒和算

クリックして下さい、別画面がでます。
和算額
   
  1. 2010/10/12(火) 08:48:32|
  2. 奥の細道
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奥の細道⑲   芦野宿

芦野宿標と奥州街道道路元標
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芦野の宿並み
なす屋

丁子屋

めがね屋

平久江家の門構え
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石の美術館
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べこ石
べこ石碑
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3500文字が刻まれている。  マウスオンして下さい。


ナツズイセン     マウスオン2枚です 
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  1. 2010/10/10(日) 08:47:46|
  2. 奥の細道
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奥の細道⑱   越堀宿

夫婦石
神社の由来によると、今から数百年前、戦国の世に
一組の男女がいて、 敵に追われこの地に逃げてきた。
あたりは一面の芦の茂みで、 身を隠す処もなく、
ふと見ると其の中に大きな石があり、男は女を抱えて
この石の割れ目に身を隠した。
この時追っ手は、この石のそばに来た。
すると白蛇が二匹現れ、巨大な石が揺れ動くのを見て
恐れおののき逃げ帰った。
二人はこの石のお陰で命を救われ、
この地に住みつき二人仲良く田畑を耕して暮らしたという。
時代の移り変わりと共に、この地にも人が住み、
誰いうとなく見落石がめおと石となり、
この石は夜になると、互いに寄り添うという話が伝えられ、
いつの頃からか夫婦石と呼ぶようになり、
ご神体・夫婦石として祀り縁結びの夫婦石神社となった。
クリック・4枚です。
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「わが国の巨木信仰」
昔から巨木には神霊が宿るという原始信仰があった。
この信仰の原初は、生命に対する信仰。
樹齢千年以上の巨木があれば、その大木を
まじかに見上げる人々に 畏怖や憧憬の心が芽生える。
古代からわが国には、神籬(ヒモロギ)、 御柱など樹木、
特に巨木は天と地を結ぶものであり、 これを伝って
神が降臨すると信じて、集落の神聖な場所に巨大な柱を立て
神の降臨を仰ぐ柱信仰があったといわれている。
また巨木は生命の根源である呪力を持つと信じ、
神木として 信仰する精霊信仰としての風習があった。
縄文時代の石川県真脇遺跡、チカモリ遺跡の巨木列柱なども
古代の宗教的儀式に使われた建造物であると推定されている。
木を神聖なものとしてとらえる観念的な考え方があった。
神籬は、当初は自然木であったり、柱を立てたりしていたが、
やがてその木を使用して神の降臨する依代(ヨリシロ)としての
施設を造るようになり、やがて神社本殿の成立をみる。
法隆寺の柱は直径2.5mの巨木を四つ割りし、
芯部分を取り去った「心去り材」を使用している。
これだけ太い原木を使い、また手間をかけて作った
貴重な円柱を建物の周囲に廻らせる。
さらに軸組構法では梁材の長さに応じて内部にも
柱を立てることが必要なため、内部は多柱構造となる。
仏堂の内部には太い円柱が何本も立ち並び、
その中央に本尊や仏像が鎮座している。
そのありさまは、まるで呪力を持った太い柱が外界の邪気を祓い、
仏の周りを守るがごとく林立している。
奈良時代の創建時の東大寺金堂(大仏殿)には、
合計76本にのぼる柱があった(現在の大仏殿は60本)
大仏はその中央にこれらの柱に守られるように鎮座している。
わが国では、古くから神の単位を「柱」と呼んで一柱、二柱と数える。
つまり柱とは、神を意味している。
東大寺の大仏は、 76柱にもおよぶ神々に守られて
鎮座しているともいえる。
まさに神と仏が習合した姿をそこに見ることが出来る。
太い柱を使うのは、わが国特有の現象である。
                   インターネットからの抜粋


遊行柳
観世信光は、西行法師が那須・芦野で詠んだ
「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」
の歌の柳を主題にして、謡曲「遊行柳」を創作した。
これにより遊行柳として広く世に知られるようになり、歌枕の地となった。
芭蕉は西行ゆかりの遊行柳に心を寄せ、
元禄2年(1689)4月19日に 立ち寄り
「田一枚 植て立去る 柳かな」の句を残している。
マウスオン2枚です 
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浴泉神社樹齢400年の上の宮のイチョウ
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教傅地獄
1318年頃、奥州白河にあった蓮華寺に"教傅"という
手の付けられない悪童が預けられた。
教傅は行いが改善されぬまま大人になり
28歳になると住職となり実母と寺で住むようになった。
元亨元年(1336)、教傅は友人達を連れ添って
那須温泉に遊興しようとした朝、
旅支度が出来ていない事に腹を立て母親の出した朝食を足蹴にする。
那須温泉に着き殺生石を見学に来たところ、急に雷鳴が轟き、
地割れから溶岩が流れ出し、友人達は逃げたが
教傅は金縛りになり硬直し飲み込こまれてしまった。
誰しも教傅の悪行に天罰が下ったと悟り、
後の享保5年に地蔵を建立し親不孝のいましめとした。
教傅地獄1
教傅地獄2
千体地蔵
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殺生石
山肌がむき出しで草木の絶えた谷あいがあり、
この奥に殺生石が鎮座している。
鳥羽上皇が寵愛した空想の女性、
玉藻前(白面金毛九尾の狐の化身)が
正体をあらわし、殺害され石になったという逸話がある。
殺生石の周辺からは昔ほどではないと言われるが、
今でも悪臭のするガスが吹き出している。
芭蕉は元禄2年(1689)4月18日にこの地を訪れ
「石の香や 夏草あかく 露あつし」と詠んでいる。
マウスオン2枚です 
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盲蛇石
マウスオン2枚です 
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那須温泉神社
第34代舒明天皇の(奈良朝630年)に創建された。
源平合戦において那須余一宗隆が屋島の戦いで
扇の的を射る時に 「南無八幡大菩薩別しては我国の神明、
日光権現、宇都宮・那須の温泉大明神
願わくは、あの扇の真中を射させ給え」
と祈願した神社
余一が名声を挙げて後、那須氏の崇敬をうけ、
領民こぞって温泉神社を勧請した。
「湯を結ぶ ちかいもおなじ 岩清水 芭蕉翁」
マウスオン2枚です 
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那須の五葉松
樹齢八百年、高さ12m、幹回り170cm
御用松


樹齢八百年、高さ12m、幹回り170cm
マウスオン2枚です 
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所在地・・那須郡那須町湯本 182
  1. 2010/10/08(金) 08:47:07|
  2. 奥の細道
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奥の細道⑰   黒羽  

雲巖寺
筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国寺と並んで
禅宗の日本四大道場と称されている。
朱塗りの橋を渡り、石段を登ると正面に釈迦堂、
獅子王殿が一直線に並ぶ代表的な 伽藍配置となっている。 <
山 門
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non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

芭蕉は参禅の師である仏頂和尚を偲びこの地を訪れ
「木啄も庵は破らず夏木立」の句を残している。
芭蕉句碑

雲巖寺の庭に咲いていた幻の玉あじさい
クルック・8枚です。
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non_nonさんのブログの小技からお借りしました。
所在地・・大田原市雲岩寺 27

那珂川の川辺の鮎料理屋で昼食にしました。
川にあった「鮎の仕掛け」です。
マウスオン・クリック、3枚です 
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鮎料理屋5

黒羽領界石 (浄泉寺)
藩主大関増業が、自藩と他藩を明らかにするため、
文化10年~11年(1813~14)大阪の石工に作らせ舟で運んだ。
この領界石は、もともとは那珂川左岸の越堀宿入口に
建てられていたが、浄泉寺境内に移された。
マウスオン2枚です 
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浄泉寺 浄泉寺1 浄泉寺2
  1. 2010/10/06(水) 08:46:17|
  2. 奥の細道
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奥の細道⑯   大田原

那須神社
創建は仁徳年間(313~399)というかなり歴史をもつ神社。
時を経てこの地を統治した那須家の崇敬社となり、那須与一が
源平合戦の勝利した文治3年(1187)自らの太刀を奉納した。
那須家の支配が弱まると一時衰退するが、
その後大関氏の崇敬社となる。
江戸時代に入ると信仰も広がり元禄年間には
松尾芭蕉が"奥の細道"行脚の折、参拝している。
マウスオンして下さい。

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鳥 居
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non_nonさんのブログの小技からお借りしました。
所在地・・大田原市南金丸 1628

芭蕉の館
芭蕉館
芭蕉と曽良
芭蕉像

黒羽城祉
田や麦や 中にも夏の ほとゝぎす   芭蕉
田や麦や 中にも夏の ほとゝぎす

黒羽城祉2
行春や 鳥啼き魚の 目は泪   芭蕉
行春や 鳥啼き魚の 目は泪

黒羽城祉3
鶴鳴や 其声に芭蕉 やれぬべし  芭蕉
鶴鳴や 其声に芭蕉 やれぬべし 

黒羽城祉4
かさねとは 八重撫子の 名成べし  曽良
句碑

黒羽城祉1
  1. 2010/10/04(月) 08:45:38|
  2. 奥の細道
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奥の細道⑮   大田原

大雄寺
マウスオンして下さい。

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大雄寺
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non_nonさんのブログの小技からお借りしました。


十六羅漢さま
  中国・日本では仏法を護持することを誓った
16人の弟子を十六羅漢と呼び尊崇した
クルック・8枚です。
<<
non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

気になっていたんです。
十六羅漢様、十六体なのに八体しかUPしなくて
あんまり多いと飽きちゃうかな~ って思って
でも思いきって追加しちゃいました。
クルック・8枚です。
<<
non_nonさんのブログの小技からお借りしました。
所在地・・大田原市黒羽田町 450
  1. 2010/10/02(土) 08:44:55|
  2. 奥の細道
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