すたのピンコロ日記

旅をして、美味しいものを食べて、毎日を楽しく!

奥の細道41  宮城・金ヶ瀬宿・船迫宿

大高山神社
敏達元年(571)に日本武尊を祭神として創建された
大河原町最古の歴史をもつ由緒ある神社。
後に推古天皇御代、聖徳太子の父・橘豊日尊(用明帝)も合祀された。
現在の本殿は元禄14年(1701)の造営で、東北最古といわれる
正応6年(1293)銘の鋳造鰐口、文治年間(1185~1189)
藤原忠衡寄進の鉄九輪塔などがある。
また、表参道の石段をあがった所に立っている鳥居は、
南部鉄で造られた珍しいもの
クリック・4枚です。
<<>
<赤い鳥居>

大高山神社・・宮城県柴田郡大河原町金ヶ瀬字台部2-1

船岡城跡
寛文11年(1671)に起きた伊達騒動の首謀者の1人とされた
原田甲斐亡き後、柴田氏が領主となり明治維新まで続いた。
中世は要害堅固な山城だったが、近世に入ると
一国一城令が出され船岡城も要害と呼ばれる事になった。
城としての機能も薄れ、山頂付近の本丸、二の丸はほとんど使用されず、
城下町に近い三の丸に領主の居館や政庁が移される事になり、
明治初頭には廃城となり多くの建物が壊された。
山頂には、昭和45年のNHK大河ドラマ「樅の木は残った」で
一躍有名になった山本周五郎の小説「樅の木は残った」の
題名のヒントになった樅の木が高くそびえている。
mominoki.jpg

伊東七十郎の碑
伊達騒動の時、伊達兵部を切ろうとして捕らえられた伊東七十郎重孝は
入牢以来33日間断食をして寛文8年4月28日斬罪された。
鹿の子清水の坂から捕縄をとっていた獄卒を横倒しに
引きずったまま駆け出して刑場に向かい
「人は首をはねられると前にのめるが、俺は仰向けになるだろう。
さすれば、兵部殿を3年のうちに亡き者にして見せよう」と言ったという
マウスオン2枚です 
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船岡城跡・・宮城県柴田町大字船岡字舘山
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  1. 2011/01/31(月) 09:40:26|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:14

大江戸街歩き   品川宿

海晏寺
建長3年(1251)頃、鮫洲に浮上がった大鮫の死体から
正観音木像が出てきた。その正観音木像を安置するために
建長寺開山大覚禅師を迎えて創建した。戦国時代に荒廃したが、
徳川家康の命により再建、文禄2年(1593)年
本多佐渡守正信を迎えて、臨済宗建長寺派から曹洞宗系単立として
中興開山した。元禄頃から紅葉の名所で、時季になると
文人墨客が集まり境内に宴をはって遊山の酒に
帰るのを忘れる程であったと云う。
本  堂
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鐘  楼
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昔は、東海道から海晏寺の参道だった。
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海晏寺・・品川区南品川5-16-22


鮫洲八幡神社
鮫洲八幡神社のある鮫洲は、旧東海道沿いにあり、
古くは御林町(オハヤシマチ)と呼ばれた猟師(漁師)町で
御菜肴八ヶ浦(オサイサカナハチカウラ)内のひとつに数えられていた。
御菜肴浦とは、新鮮な魚介類を将軍家に献上する義務を
持たされた漁場の事。
又、江戸湾44ヶ浦の漁業上の元締めとなって、優先的な特権を持っていた。
八ヶ浦は本芝・芝金浦・品川浦・御林・羽田・生麦・神奈川・新宿の各猟師町。

鮫洲八幡神社は古くは御林八幡宮といわれ
寛文年間(1661~1672)以前に建立され、同村の総鎮守であった。
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埋め立て前の鮫洲海岸(御林浦)
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鮫洲八幡神社・・品川区東大井1-20-10
  1. 2011/01/29(土) 10:06:35|
  2. 東  京
  3. | コメント:18

大江戸街歩き   品川宿

品川寺
東海道五十三次の一番目の宿場となり「旅人の町」として栄えて来た品川。
古い歴史を持つこの町で、大同年間(806~810)に開創された。
この寺の大梵鐘は、1657年に鋳造された1トンもある大きなものだが
幕末の動乱に乗じて海外に持ち出され、慶応年間にパリ万博などで姿を
現わした後、行方不明になっていたが、スイスのジュネーブで見つかり
昭和5年にジュネーブ市から返還された洋行帰りの梵鐘として有名。
山  門
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本  堂
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洋行帰りの梵鐘
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江戸六地蔵の一つ
宝永5年(1708)に造られた銅造露座の仏像で江戸六地蔵の第一番。
現存する江戸六地蔵像のうち唯一頭上に傘を載せていない。
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幹周り5.35m・樹高25m・樹齢600年のイチョウ
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金生(かのう)七福神 
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品川寺・・品川区南品川3-5-17


  1. 2011/01/27(木) 10:06:56|
  2. 東  京
  3. | コメント:16

大江戸街歩き   品川宿  

土佐藩15代藩主・山内豊信容堂の墓
山内豊信容堂は、幕末四賢候の一人として活躍し、
維新後は内国事務総裁などを歴任。
無類の酒好きで 自ら鯨海酔候と称したりした。
明治5年(1872)45歳で没した。


海雲寺
本堂に火と水の神として、また台所の神としても有名な
「千躰三宝大荒神王」が祀られている。
三宝荒神は、台所で一番大切な火と水を守る神様であることから
台所に祀ると一切の災難を除き、衣食住に不自由しないといわれている。
その霊験は、江戸や品川宿の度重なる大火がこの寺近くにおよんでも
海雲寺を避けたといい、鎮火・防水の神様といわれている。
心願成就・開運出世・諸災消除に利益があると伝えられている。
クリック・5枚です。
<<海雲寺
non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

千躰荒神堂奉納扁額
堂内に懸けられている扁額は信徒の奉納によるもので全部で27面ある。
文字額及び雌雄二鶏図が多く、 格天井の中央に龍の図が、
その周りに纏図が描かれている。文久元年(1861)作の雌雄二鶏図は、
ガラスの上に彩色された貴重な資料であり、また、昭和10年に奉納された
浪曲家廣澤虎造夫妻による文字額もある。
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力 石
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東京都品川区南品川3丁目5-21

  1. 2011/01/25(火) 08:43:39|
  2. 東  京
  3. | コメント:30

大江戸街歩き   品川宿・立会川


京浜急行の立会川駅から約200mほど先の立会川河口の
勝島運河で、2004年に大きな石が20個以上掘り出され、
嘉永6年(1853)のペリー来航の「黒船」騒動の渦中に
土佐藩が築いた浜川砲台の一部と見做されている。
龍馬は、嘉永6年9月に父の八兵に「異国船処々に来たり候へば
軍も近き内に奉存候、その節は異国の首を打ち取り帰国可仕候」と
書簡を書いている。これにより19歳で剣術修行のため
上京した龍馬が藩の命を受けて警備についた浜川砲台である事が
明らかになった。砲台の石が発見され品川区と高知県が
姉妹都市になり龍馬像が2004年に贈られた。


涙 橋
商店街を東に進むと旧東海道で、街道を南に行くと
浜川橋があり、鈴ヶ森刑場で処刑される罪人を親族らが密かに
涙を流しながら見送った事から涙橋といわれたともいう。
現在の橋は昭和9年(1934)に架け替えられた。
旧東海道



浜川砲台跡
立会川河口の勝島運河の元品川沖海岸線跡に、
砲台の石垣に使われた石が置いてある。
最初にペリー来航時には、この砲台から1.6km沖まで黒船が侵入したという。


品川宿海岸ロード
立会川砲台につながる海岸線。
龍馬はここから江戸湊近くを航行する黒船を見て
何かを思うようになったのか?その後の龍馬の人生に大きな影響を
与えた場所でもある。
今は埋め立てられ往時を偲ぶ縁もないが・・・(x_x;)シュン・・

東京都品川区東大井2丁目

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  1. 2011/01/23(日) 21:14:09|
  2. 東  京
  3. | コメント:10

江の島


久しぶりに江ノ島にいった。
片瀬江ノ島駅を降りたとたん、目の前に穏やかな海
そして見事な富士山が見えた
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江島神社 
日本三大弁天の一つに数えられ「奥津宮(おくつみや)」
「中津宮(なかつみや)」「辺津宮(へつみや)」に
宗像三女神を祀り「江島大神」と総称する。
欽明天皇13年(552)欽明天皇の勅命により島の洞窟に
宮を建てたのに始まる。当時は海運、漁業、交通の
守護神として祀られた。その後、神仏習合により
金亀山与願寺と号した。寿永元年(1182)源頼朝の命により
文覚が島の岩屋に弁財天を勧請し、これをもって創建とする。
歴代の鎌倉幕府将軍・執権や、代々の領主から崇敬を受けた。
江戸時代には弁才天信仰が盛んになり、多くの庶民が
参詣するようになった。明治6年(1872)神仏分離によって
仏式を廃して神社となり「江島神社」へ改称、
同時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、
廃仏毀釈により多くの仏教施設や仏像が破壊された。

江島神社の始まりといわれる洞窟に建てられた宮
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江島神社
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辺津宮
5  hentumi

辺津宮奉安殿(弁財天)
6  bennzai

中津宮
7  nakamiya

亀甲石
7  kixtukou

マイアミビーチに似てる?
7  maiami

頼朝が寄進した鳥居⇒奥津宮⇒八方睨みの亀
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龍 宮(わだつみのみや)
江ノ島は湧出以来、龍の棲む所といわれ、古来より
龍神は弁財天信仰と習合し、密接な結びつきから
江ノ島縁起を始め、多くの伝説が残っている。
マウスオン2枚です 
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亀石・・そっくりでしょう?
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江ノ島神社・・神奈川県藤沢市江の島2-3-8

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  1. 2011/01/21(金) 21:02:46|
  2. 鎌  倉
  3. | コメント:18

奥の細道40  宮城・白石宿

白石城
寛治2年(1088)後三年の役で戦功を成した刈田左兵衛尉経元が
白石の地に賜り、刈田氏と称してここに築城したのが始まり。
中世期末期頃、地元の土豪白石氏の居城だったが、
天正18年(1590)伊達氏の勢力化に入り蒲生氏の所領となった。
慶長7年(1602)以降は、仙台城の支城として伊達家の重臣
片倉氏が代々居城し、元和元年(1615)の一国一城令後も
例外的に「城」としての存続が認められた。
明治維新時には、白石城で奥羽越列藩同盟が結ばれるなど
歴史が大きく転換する時にたびたび登場し、重要な役割を
果たしてきたが、明治2年には白石藩知事となった南部家が
城主となり、その後、明治政府の広域行政府が置かれた。
のちに、陸軍省、大蔵省へと管轄が移り、明治7年に 民間に
い下げられ解体された。天守の代用となっていた三階櫓は、
支城という格と幕府への配慮から 大櫓と名づけられた。
造建築による完全復元天守として、平成7年3月に復元された
戦後の木造復元天守では高さ・広さともに日本最大級である。
クルック・8枚です。
<<大櫓(天守閣)
non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

芭蕉句碑
かげろうの 我肩に立 かみこかな
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虚子の句碑
羽と陸と 併せて蔵王 夏の山

松窓乙二(ショウソウオツニ)句碑
栗まくや わすれすの山 西にして


18代横綱・大砲萬右衛門
明治2年11月28日生れ、少年の頃60kgの米俵を両手に
軽々と提げて町まで運び「三沢の怪童」と呼ばれた。
明治17年、年寄・尾車文五郎の門に入り、郷里の地名にちなんで
しこ名を「三澤滝」とした。
身長198cmの巨漢で、明治21年、しこ名を「大砲」と改める。
明治34年に横綱になって一世を風靡した。 大砲
白石城跡・・・宮城県白石市益岡町

油を使わず小麦粉と塩水で作られているので、舌触りがよく消化に優れている。栄養価が高く、胃にやさしい健康食品として、好評を得ている。今から三百余年前、白石城下に住んでいた鈴木味右衛門が、胃を病んで床に伏していた父のために、旅の僧から油を一切使わない麺の製法を教わり、これを温めて父にすすめたところ、長年患っていた胃病もたちまち回復へ  向かったと伝えられている。 喉越しがよく、とても美味しかった!
白石温麺
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  1. 2011/01/19(水) 08:58:56|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:16

奥の細道39  宮城・白石宿

延命寺
慶長初年に中道坊卓彦俊雄が中興したと伝えられる。
山門は、明治初期に廃城となったことで払い下げられた
白石城厩口門を移築したものである。
厩口門は、厩曲輪に入る門で、坂口門とともに
本丸を守るうえでの重要な防衛拠点の一つとして、
幾重に防備を固めていた様子がうかがえる。
移築の際、かなり改築し入母屋屋根を切妻にし、
華頭窓や眼象窓が追加された。
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本 堂
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阿弥陀堂
この建物は左半分が屋内型の堂で喘息地蔵
右半分が辻堂のような屋外型で阿弥陀如来と、ころり地蔵がならんでいる。
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喘息地蔵
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左が石仏の阿弥陀如来、右が鋳造仏ころり地蔵
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ころり地蔵
マウスオンして下さい。
  

延命寺・・・宮城県白石市字不澄ケ池68

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  1. 2011/01/17(月) 09:42:37|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:20

奥の細道38  越河(コスゴウ)宿・斉川宿

馬牛沼
9世紀の始め頃、征夷大将軍坂上田村麻呂の馬がこの沼に落ちて
死んだので「馬入沼」という説、また沼の中に孤州が馬に似ているので、
「馬形沼」、この沼に馬首牛身の異獣が泳ぎ回っていたので「馬牛沼」と
名づけたなどの謂れがある。馬牛沼では明治30年頃から鯉の養殖が
盛んで、晩秋に行われる「沼乾し」の行事は秋の風物詩となっている。
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田村神社
桓武天皇の御代(延暦年間800年頃)坂上田村麻呂が、
東夷を討つためやって来た時、ここの人々が山中に潜む山賊に
苦しんでいるのを見て賊を討平らげてくれた。
その時、田作りや新しい稲作りを指導してくれたので、
斎川が平和で豊かな里になった。
地区民がその恩徳に感謝し田村麻呂を神として祀ったといわれる。
マウスオン2枚です 
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甲冑堂
源平合戦の時、源義経の家臣として平泉時代から仕えた
大鳥城主・佐藤庄司基治の息子、継信・忠信は、平家追討に
数々の武勲をたてた。しかし兄・継信は元暦元年(1184)
四国八島の戦いにおいて、義経の見代わりとなって
平能登守教経の矢を受けて壮烈な戦死を遂げた。
弟・忠信は、義経が兄・頼朝と仲たがいとなり、吉野の山にこもって
敵方に襲われた時、自ら義経と名乗り唯一人敵と戦い、
主人一行を落ち延びさせた後、京都の堀川の館に
潜んでいたところ文治2年(1186)200名の敵に襲われた。
これまでと「奥州武士の最後を見よ」とばかりに、腹かき切って
壮烈な最期をとげた。文治3年()義経一行は世を忍ぶ山伏姿で
奥州にたどり着いた。兄弟二人の死を知った母親の悲しみは
計り知れなかった。二人の嫁・楓と初音は、自分達の悲しみを
押えて母を慰めたが嘆きは大きかった。最後に考えついたのが
形見の甲冑を着て「継信・忠信、ただ今凱旋致しました」
と、母に二人の子の姿を見せて喜ばせたという。 
二人を祀る甲冑堂は、芭蕉をはじめ数多くの文人が訪れている。
一度焼失し田村神社境内に再建され女武者二体の木像が安置されている。



天野桃隣の句碑
「戦めく 二人の嫁や 花あやめ」

田村神社・・・白石市斎川上向山115

コメント欄は左上の日時の下にあります。



  1. 2011/01/15(土) 17:58:26|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:11

奥の細道37  福島・貝田宿


石母田の鎮守国見神社の西側にある赤松の名木で、近江の唐崎の松
摂津曽根崎天神の松とともに「天下の三名松」といわれている。
平治元年(1159)の平治の乱に敗れた源義朝の子・牛若丸(源義経)が、
平泉の藤原秀衡を頼って東下りする折、この松に腰掛けてひと休みした
と伝えられている。現在の松は2代目である。

国見町石母田の風景


国見神社
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義経の腰掛松
初代の松は小屋の中に!


現在の松は二代目!


三代目を育成中!
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義経の腰掛松 ・・・国見町石母田字笠松地内

コメント欄は左上の日時の下にあります。










  1. 2011/01/13(木) 08:47:19|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:16

奥の細道36  福島・桑折宿   

無能寺
慶長元年(1596)に良然上人が創建した。
その後、傑僧といわれる無能上人(1683~1719)が現れ
当山を中心に教えを奥州各地に弘めた。無能上人の入寂後、
弟子の不能が無能上人の徳をあがめて「無能寺」と改称、再興された。
本堂に徳川家の葵の御紋を見ることが出来る。
マウスオン2枚です 
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御蔭廼松(ミカゲノマツ)
明治14年8月、明治天皇が東北巡幸の際の休息所であったこの寺の
本堂前の径12間・樹齢300年の老松を見て、御蔭廼松と名ずけ
「おほきみの みかげの松の 深みどり 夏も涼しき 色に見えつつ」と詠んだ。
マウスオン2枚です 
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無能寺・・・福島県伊達郡桑折町字上町4番

奥州街道と羽州街道の追分
左に線路を越える道が旧羽州街道で、小坂宿・小坂峠を越えて
七ヶ宿を経て、出羽の国に出て、山形、秋田を経由して青森の油川で
再び奥州街道と合流する道である。



  1. 2011/01/11(火) 08:49:59|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:16

スカイツリー

8日、両国から歩いてスカイツリー
隅田公園を抜けて言問橋、桜橋。。。
浅草までウォーキング
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この日の高さは539㍍
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周辺の商業施設も着々と建設が進んでいる。
すか
  1. 2011/01/09(日) 09:24:34|
  2. 東  京
  3. | コメント:16

三鷹散歩

三鷹市・大沢の里 水車経営農家

武蔵野地域の水車は、江戸時代以降新田開発に伴って数多く設置され
明治末期から大正期にかけて、産業技術近代化の中で最盛期を迎えた。
その後、昭和に入ると急激に減少していったが、峯岸家は
文化14年(1817)以来五代にわたり水車経営に携わってきた。
クルック・7枚です。
<<
北斗さんのソースをお借りしました

「新車(シングルマ)」と呼ばれるこの水車は、文化5年(1808)頃、
創設され、その後、度重なる改造を加えてきた多機能性を持つ
両袖型の大型水車で、規模・形式ともに武蔵野地域を代表する
精米・製粉用営業用水車で、江戸・明治・大正の3代の
職人たちの木製機械造りの伝統技術が保存されている。
水輪は直径、約4・6㍍あり、精米用の「搗き臼(ツキウス)」臼と杵14組
「挽き臼(ヒキウス)」2台・平面篩機の「やっこ篩(フルイ)」2台
「せり上げ」(昇降機)2台を備えている。
2009年には、日本を代表する水車として日本機械学会が
機械遺産に認定した。野川の改修工事により、
昭和43年頃に水車の稼動は停止した。
水輪は14個の「ハコ」と呼ばれる部分で構成され
この「ハコ」を組み立てる事によって直径4・6㍍の 水輪が出来上がる。
材質は耐水性がある赤松が使用されている。


クリックして下さい、別画面がでます。
暗渠

クルック・7枚です。
<<
⇒non_nonさんのブログの小技からお借りしました。
大沢の里水車経営農家・・三鷹市大沢6-10-15

コメント欄は左上の日時の下にあります。
  1. 2011/01/07(金) 21:42:04|
  2. 東  京
  3. | コメント:10

山  梨  

昇仙峡
穏やかな川の流れ→仙ヶ滝→そして川下へ
8枚です。クルックして下さい
<<
    non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

マウスオンして下さい
お土産屋さんのお庭

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Sakuraさんのソースをお借りしました
昇仙峡・・山梨県・甲府市

コメント欄は左上の日時の下にあります。


  1. 2011/01/06(木) 12:30:09|
  2.   旅  
  3. | コメント:16

2011年の初日の出

日の出20111


明けましておめでとうございます(ツ _ _)ツ))
今年も┌|*゚o゚|┘よ┌|*゚0゚|┘ろ┌|*゚-゚|┘し┌|*゚。゚|┘く♪お願いします。


日の出201112


日の出20113
福島県いわき市・新舞子海岸の元旦
  1. 2011/01/04(火) 08:13:24|
  2. 未分類
  3. | コメント:27

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