すたのピンコロ日記

旅をして、美味しいものを食べて、毎日を楽しく!

宗谷岬

夫の弟夫婦と三人で、礼文島と利尻島を歩いてきた。

羽田から稚内空港へ・・・そして宗谷岬
20118181.jpg

20118188.jpg吉田弘作詞、船村徹作曲の
「宗谷岬」の歌碑。近づくと千葉紘子の歌が流れる。

20118183.jpg
20118182.jpg

第二次世界大戦中の1943年10月11日、宗谷海峡で5時間にわたり
日本海軍とアメリカ海軍との交戦があり、多数の犠牲者が出た。
この戦闘による犠牲者の慰霊と平和を祈念する碑。
20118184.jpg 

20118186.jpg
慰霊碑「祈りの塔」は16ヶ国に及ぶ乗客・乗員269人の
犠牲者に因んで、羽根が16枚、高さ269mあるという。
20118185.jpg

間宮 林蔵
江戸時代後期の隠密、探検家。
近藤重蔵、平山行蔵と共に文政の三蔵と呼ばれる。
伊能忠敬に測量技術を学び、西蝦夷地を測量した。
幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索。
文化6年(1809)樺太が島であることを確認した松田が帰ったあと、
樺太人らと共に海峡を渡って黒竜江下流を調査した。
間宮は樺太が島であることを確認した人物として認められ、
シーボルトは後に作成した日本地図で樺太・大陸間の海峡最狭部を
マミアノセトと命名した。海峡自体は「タタール海峡」と記載している。
右は、間宮が樺太に旅立った所で、
二度と帰れないと覚悟して、国から墓標として持ってきた石。
20118189.jpg 201181810.jpg
スポンサーサイト
  1. 2011/08/30(火) 09:27:07|
  2.   旅  
  3. | コメント:22

奥の細道66   鳴子  

鳴子峡
宮城県大崎市(旧鳴子町)にある峡谷。読みは「なるご」と濁ることもある。
10月中旬から11月下旬にかけて、大谷川が刻んだ深さ100メートルに
及ぶ大峡谷が、赤や黄色の美しい紅葉に染まる。
マウスオン2枚です 
<


封人の家
江戸時代、仙台領と新庄領の封人(国境を守る役人のこと)を務めた、
堺田(サカイダ)村の庄屋・有路(アリジ)家住宅。
建物は築300年余りの茅葺き寄棟造りで、家屋の中に厩(ウマヤ)がある。
芭蕉は大雨のために、この家に二泊三日滞在し
蚤虱(ノミシラミ)馬の尿(バリ)する枕もとの句を詠んでいる。
今回の大地震でも、ビクともしなかった封人の家
茅葺の屋根を張替え工事中だった。
20117271.jpg
20117275.jpg

20110815-154243-31551400.gif

このカマドは人間用のではなく、馬用のカマド
20117274.jpg

蚤虱(ノミシラミ)馬の尿(バリ)する枕もと
20117276.jpg
封人の家・・山形県最上郡最上町堺田59-3 続きを読む
  1. 2011/08/28(日) 11:16:43|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:6

奥の細道65  尿前

尿前(シトマエ)の関跡
鳴子は昔、陸奥の国(青森・岩手・宮城)と出羽の国(秋田・山形)の
国境に位置し、政治的に重要な場所だった。
戦国時代、ここにを領有していた大崎氏は尿前から少し西に入った所に
「小屋館(コヤダテ)」という関所を設けた。
この関所を遊佐勘解由という人が守るようになり
その後、遊佐家の屋敷に関所を移した。
関所を守るために配置された人々は、周囲を切り開き
田畑を作り、住居を建てた。鳴子に村が成立する過程で
尿前の関の影響は大きい。大崎氏が没落して、
鳴子が伊達藩領になってからも、百姓身分になった遊佐氏が
単独でこの関所を守って来た。
201172653.jpg

マウスオン2枚です 
<


201172656.jpg 201172657.jpg

芭蕉が曽良を伴って鳴子を訪れたのは、元禄2年(1689)5月15日
通行手形を持っていなかったので、関所を通ることが出来ず
山また山の難所続きで、碌な休息もとれず
尿前の関の前後は「道の奥」「細道」であると強く書かれている。

マウスオンして下さい。



尿前の関跡・・宮城県大崎市鳴子温泉尿前

続きを読む
  1. 2011/08/26(金) 10:55:39|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:8

奥の細道64   平泉

毛越寺(モウツウジ)
嘉祥3年(850)中尊寺と同年に円仁が創建。
その後大火で焼失して荒廃したが奥州藤原氏第2代藤原基衡夫妻、
および子の第3代藤原秀衡が壮大な伽藍を建立した。
『吾妻鏡』によれば、「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」があり、
円隆寺と号せられる金堂・講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵があり、
嘉祥寺その他の堂宇もあって、当時は中尊寺をしのぐ規模だったという。
以後、鎌倉幕府にも保護されたが、嘉禄2年(1226)の火災、
さらには天正元年(1573)に兵火にあい、長年の間、土壇と礎石を残すだけとなっていた。
寛文年間(1661~1672) には本寺とその周辺は水田化された。
しかし、伊達藩により経済的援助や保護が行われ、明治の後半には
新しい本堂や庫裏を南大門の外側に建て、
大正10年(1921)には伊達一関藩の城門を移し山門とした。
現在の本堂は平成元年(1989)に平安様式に則って再建されたもの。
表門は一関城の大手門を移築したものだった。

201172643.jpg

201172644.jpg

大泉が池がある毛越寺庭園は、国を代表する
平安時代の浄土庭園として名高く、2011年6月、世界遺産に登録された。
201172649.jpg

マウスオンして下さい、句碑が出ます。 
<

マウスオンして下さい、英訳の句碑が出ます。 
<

毛越寺・・岩手県西磐井郡平泉町字大沢58

続きを読む
  1. 2011/08/24(水) 08:19:04|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:12

奥の細道63   平泉

無量光院跡
平安時代末期、奥州に勢力を振るった奥州藤原氏は、
初代藤原清衡が中尊寺、二代藤原基衡が毛越寺を造営した。
そして三代藤原秀衡が建立したのが無量光院である。
無量光院は奥州藤原氏の本拠地平泉の中心部に位置し、
『吾妻鏡』によれば、京都府宇治市の平等院を模して造られ、
新御堂(ニイミドウ)と号した。新御堂とは毛越寺の新院の意味である。
発掘調査の結果、四囲は東西約240メートル、南北約270メートル、
面積約6.5ヘクタールと推定され、平等院よりも規模が大きかったと推定される。
本尊は平等院と同じ阿弥陀如来で、地形や建物の配置も平等院を模したとされるが、
中堂前に瓦を敷き詰めている点と池に中島がある点が平等院とは異なる。
本堂の規模は鳳凰堂とほぼ一致だが、翼廊の長さは一間分長い。
建物は全体に東向きに作られ、敷地の西には金鶏山が位置していた。
配置は庭園から見ると夕日が本堂の背後の金鶏山へと沈んでいくように
設計されており、浄土思想を体現していた。
度重なる火災で焼失し、今日では土塁や礎石が残るのみであるが
遺構は良好に残り、2011年6月、世界遺産に登録された。
201172640.jpg

三方を土塁に囲まれた境内には、梵字が池と呼ばれる池跡があり
その中に本堂跡の礎石が残る西島跡と東中島跡がある。パンフレットの写真より
201172641.jpg

復元図パンフレットの写真より
201172642.jpg
無量光院跡・・岩手県西磐井郡平泉町平泉字花立
  1. 2011/08/22(月) 11:09:25|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:14

奥の細道62   平泉

卯の花清水
文治5年(1189)4月、高舘落城のとき、義経の忠臣の一人・増尾十郎兼房が
主君義経とその妻子の、悲しい最後を見とどけ
白髪を振り乱しながら奮戦し、敵将諸共燃えさかる火炎の中に飛び込んで
遂には死を遂げた様を、白く咲き乱れる卯の花(ウツギ)に例えたものである。
兼房、年六十六歳だった。
芭蕉とともにここを訪れた曽良は
卯の花に 兼房みゆる 白毛かなと詠んでいる。 
201172637.jpg

201172638.jpg

201172639.jpg
卯の花清水・・岩手県西磐井郡平泉町平泉柳御所

今回はコメント欄を閉じさせていただきます。


  1. 2011/08/21(日) 11:48:01|
  2. 奥の細道

奥の細道61   平泉

201172630.jpg

高館(タカダチ)義経堂
201172631.jpg

源義経公供養塔
201172632.jpg

芭蕉の句碑
夏草や 兵(ツワモノ)どもが 夢の跡
201172633.jpg

頂上からの眺め
201172635.jpg

マウスオンして下さい。

高館義経堂・・岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所

明日から利尻・礼文島を歩いてきます。
コメントのお返事は帰ってからいたします。


続きを読む
  1. 2011/08/17(水) 10:31:11|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:10

奥の細道60   平泉

中尊寺
嘉祥3年 (850)、円仁 (慈覚大師) が関山弘台寿院を開創した
その後貞観元年 (859) 清和天皇から「中尊寺」の額を賜った。
12世紀初頭、奥州藤原氏の初代・藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する
「多宝寺」を建立したのが、中尊寺の創建といわれる。
現存する金色堂の上棟は、天治元年 (1124)。
この堂は清衡が自身の廟堂として建立したもので、
内部の須弥壇内には清衡と子の基衡、孫の秀衡の3代の遺体 (ミイラ) が安置されている。
2011年6月、毛越寺庭園、無量光院跡などとともに世界遺産に登録された。

阿弥陀堂                        金色堂
201172613.jpg 201172614.jpg 

経蔵
201172615.jpg マウスオンして下さい。

芭蕉の句碑と像
201172616.jpg 2011726180.jpg

201172619.jpg
20110806-123813-04836700.gif

中尊寺鎮守 白山神社
201172623.jpg  201172624.jpg
能楽殿                 白山神社
201172625.jpg  201172627.jpg
一二支一代守護神社
201172626.jpg

本  堂
201172628.jpg


武蔵坊弁慶の大墓碑
文治5年(1189)義経の居城
高舘焼打されるや弁慶は
最後まで主君を守り、遂に衣川にて
立往生す。
遺骸をこの地に葬り五輪塔をたて
後世、中尊寺の僧・素鳥の詠んだ
石碑が建てられた。
色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊

中尊寺・・岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202
続きを読む
  1. 2011/08/15(月) 07:27:46|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:8

奥の細道59   一ノ関

二夜庵(フタヤアン)跡
芭蕉と曾良が平泉を訪れた際、泊まったという磐井橋付近の金森邸の跡
ここに二泊したことから二夜庵と呼ばれている。

クリックして下さい、説明文がでます。
 二夜庵跡
二夜庵跡・・一ノ関駅近く

芭蕉の辻
20117266.jpg

一ノ関駅前にあった、大槻三代の像
マウスオン2枚です
<


今回はコメント欄を閉じさせていただきます。
次回、宜しくお願いします。


  1. 2011/08/13(土) 09:31:50|
  2. 奥の細道

奥の細道58   一ノ関

いよいよ奥の細道を再開します。
3月の大震災のために行程が変更されて、アップが遅れました。
また44回・仙台から57回・登米までは、大震災で最も被害が
大きい所なので、アップするのは耐えがたく
悩みましたが奥の細道の途中が抜け落ちるのも(* T-) 
悩んだ末に一日も早く元の美しい町に復興してほしいとの願いをこめて、
2月7日から3月3日までにアップしました。
時間がゆるされる方は、カテゴリーの奥の細道をクリックして、
多賀城や松島、石巻の美しい風景をごらんになってください。
私は、自分が出来る応援として、節電、東北の商品を買う
そしてゆるす限り東北への旅に行くつもりです。


旧有壁宿本陣
慶長8年(1603)徳川家康が江戸に幕府を開くと、
江戸は政治の中心とともに、交通の枢軸にもなり、
国中の交通が江戸に向け、整備された。
五街道は、そのときに整備された江戸と地方を結ぶ5つの主要幹線で、
人と物資の移動を支え、江戸の発展に大きく貢献した。
当時、みちのくの地と江戸は奥州街道で結ばれ、
江戸日本橋を起点に奥州白河までの27宿からなっていた。
有壁宿は、この奥州街道の延長道にある。
旧有壁宿本陣は、元和5年(1619)に奥州道中の宿駅として創設され、
参勤交代の際、松前・八戸・盛岡・一関の藩主や各藩重臣が宿泊した。
現存する建物は、延享元年(1744)に改築された。
道路に面して二階建長屋があり、その脇に御成門が立っている。
御成門は、藩公や幕府及び各藩重要役人が利用した。
20110806-101156-74195900.gif

20117263.jpg

20117264.jpg

29117265.jpg

旧有壁宿本陣・・宮城県栗原市金成有壁本町31
  1. 2011/08/11(木) 11:41:11|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:10

広島  宮島

嚴島神社
海を敷地とした大胆で独創的な配置構成、平安時代の寝殿造りの
粋を極めた建築美で知られる日本屈指の名社。
廻廊で結ばれた朱塗りの社殿は、潮が満ちてくると海に浮かんでいるように見える。
創建は推古元年(593) 佐伯鞍職による。
平安時代後期の仁安3年(1168)には、佐伯景弘が嚴島神社を崇敬した
平清盛の援助を得て、今日のような廻廊で結ばれた海上社殿を造営。
本殿以下37棟の本宮(内宮)と、対岸の地御前に19棟の外宮が設けられ、
全て完成するまでに数年が費やされたといわれる。
社運は平家一門の権勢が増大していくにつれ高まり、
その名を世に広く知られるようになった。
鎌倉時代から戦国時代にかけて政情が不安定になり荒廃した時期があったものの、
弘治元年(1555)、厳島の合戦で勝利を収めた毛利元就が
神社を支配下に置き庇護したことから、社運は再び上昇。
天下統一を目前にした豊臣秀吉も参詣して武運長久を祈願しており、
その年安国寺恵瓊に大経堂(千畳閣)建立を命じている。
社殿が洲浜にあるため海水に浸る床柱は腐食しやすく、
また永い歴史の間には幾度となく自然災害や火災に見舞われてきたが、
その度に島内外の人々の篤い信仰心に支えられて修理再建され、
今日まで平安の昔さながらの荘厳華麗な姿を伝えている。
国重文、国宝の大鳥居、能舞台、本社本殿、平舞台、高舞台があり、
世界遺産に登録されている。楠の自然木を使った四脚造りの「大鳥居」は、
土に埋もれた部分がなく全体の重みで立っていて、
現在のものは平安時代から数えて八代目、明治8年(1875)に建立された。

クリック8枚です。

<<
北斗さんのソースをお借りしました

嚴島神社・・広島県廿日市市宮島町1-1 続きを読む
  1. 2011/08/09(火) 14:59:10|
  2.   旅  
  3. | コメント:12

広  島

原爆投下から66年目の夏が来た。
昭和20年2月、東京都杉並区高円寺で
アメリカ軍による空襲の中、畳で囲んだ空間で私は生まれた。
戦後の年数は私の歳。
世界中の人々を震撼させた原爆投下・・・
戦争を好きな人はいない。
だれもが戦争に反対する。
なのに、66年経っても世界から戦争はなくならない・・(* T-)

戦争の残酷さ、悲惨さ、人間を鬼にしてしまう戦争の怖さを
肌で感じて欲しいと、3月、孫娘と広島の原爆ドームに行った。

原爆ドーム
原爆ドームの名で知られる広島平和記念碑は、
広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える「被爆建物」
原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。
ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、
“二度と同じような悲劇が起こらないように”との戒めや願いをこめて、
「負の世界遺産」と呼ばれている。
クリックして下さい⇒原爆ドーム
< < < < < < < < < <
non_nonさんのブログの小技からお借りしました。
原爆ドーム・・広島市中区大手町 1-10



投下目標となった相生川 201132812.jpg

爆心地
爆心地4
爆心地3
続きを読む
  1. 2011/08/06(土) 08:15:17|
  2.   旅  
  3. | コメント:24

大江戸街歩き   新宿区

パソコンの修理が終ってやっと帰って来ました。
長い2週間でした。


善国寺
安土桃山時代の文禄4年(1595)、池上本門寺第12代貫主・日惺上人により、
馬喰町に創建される。 たびたび火災に見舞われ、
麹町を経て寛政5年(1793)に現在地へ移転した。
本尊の毘沙門天は江戸時代より「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集め、
芝正伝寺・浅草正法寺とともに江戸三毘沙門と呼ばれた。
現在は山手七福神の一つに数えられている。
201161542.jpg

201161541.jpg

201161539.jpg
善国寺・・新宿区神楽坂 5-36

善国寺の向いにある小路をぬけると、小さな小路が続く・・・
201161543.jpg 201161544.jpg

山田洋次監督は、この「和可菜」で 『男はつらいよ』シリーズの脚本を書いていた。
201161545.jpg

201161546.jpg

201161547.jpg

201161548.jpg 201161550.jpg

201161551.jpg 201161552.jpg

名画座 ギンレイホール
1974年に名画座としてスタートした「飯田橋ギンレイホール」
神楽坂の旅館「和可菜」で『男はつらいよ』シリーズの脚本を書いていた山田洋次監督、
新藤兼人監督と乙羽信子夫妻、伊丹十三監督などもよく訪れたという。
また、森田芳光監督はここでのアルバイト経験を生かして『の・ようなもの』を撮った.
など映画関係者にまつわるエピソードにも事欠かない。
だが、ここは決して追憶の彼方にある映画館ではない。
時代の流れで名画座が次々と姿を消す中で踏ん張り続け、
今も現役バリバリの映画館として存続している。
201161553.jpg
新宿区神楽坂 2-19 銀鈴会館 続きを読む
  1. 2011/08/04(木) 13:10:00|
  2. 東  京
  3. | コメント:14

クラシック・アナログ時計

プロフィール

すた

Author:すた
毎日笑って、楽しく過ごしたい!

カレンダー


カテゴリ

電力使用状況&電気予報

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

最新トラックバック

リンク

このブログをリンクに追加する

RSSリンクの表示

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR