すたのピンコロ日記

旅をして、美味しいものを食べて、毎日を楽しく!

奥の細道69   立石寺

若松寺
約1300年前、奈良時代の和銅元年(708)に行基菩薩が開山した。
その後、平安時代の貞観二年(860)山寺の立石寺を開山した慈覚大師(円仁和尚)が
当山の山頂付近にあった御堂を現在の地に移し、 造営工事をした。
室町時代には西国の観音巡礼信仰が東国にも普及し、
最上三十三観音札所の第一番に位置づけられており、
現在も毎年多数の巡礼者が訪れている。
江戸時代には観音堂を大改修し、三代将軍徳川家光が御朱印として保証している。
当寺は「縁結び」観音としても知られているほか、旧正月7日に行われる
「鬼やらい」は「色力安穏」という人間の本願を祈念する行事として有名。

本   坊
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観音堂
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元三大師堂
天台宗中興の祖と称される良源のこと。
寛和元年(985)正月三日に没したのでこの名がついたという。
元三大師堂は観音堂の東側にあります。
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縁福の大風鈴
1300年前、この地を訪れた行基菩薩が、鈴の音に誘われて山に入り、
寺を開いたという言い伝えがある。
昔から縁結びの観音さまとして多くの人々に親しまれ、信仰を集めてきた若松観音。
マウスオンして下さい。


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若松寺・・山形県天童市大字山元2205-1
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  1. 2011/09/30(金) 09:47:57|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:14

奥の細道68   立石寺

立石寺(山寺)
貞観2年(860)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山した。
慈覚大師は東北各地に寺院を建てたが、特に山寺立石寺に力を入れ、
明るく正しい人を養成する道場として建てた。
鎌倉時代の頃になると東北仏教界の中枢となし、
山上山下三百余の寺坊に、一千余名の修行者が居住、盛況を極めた。
戦国時代になると山内に兵火を浴び消失・衰退。
延文元年(1356)初代の山形城主・斯波兼頼により根本中堂を再建。
全山を構成する角礫凝灰石は、永年の水蝕と風蝕を受けて奇岩怪石となり
樹木の間に見え隠れする様は、四季折々の景観となっている。
登山口から頂上の如法堂(奥の院)まで、階段が1015段ある。
本 堂

本 堂
  延文元年(1356)初代の山形城主
斯波兼頼により再建。

芭蕉の句碑と清和天皇御宝塔 
元禄2年(1689)おくの細道をたどり、
山寺を訪れた芭蕉の句を、嘉永6年(1853)に門人達が建てた句碑と
山寺を勅願寺とした清和天皇の供養塔。
天皇の遺徳を慕い、国家の安泰を祈って
建てられた山寺で最も古い石塔
芭蕉の句碑と清和天皇御宝塔
日枝神社

日枝神社
貞観2年(860)慈覚大師の開山にあたり、
釈迦・薬師・阿弥陀三尊を安置し
守護神とした。

亀石  自動スライド2枚です。                御神輿殿 
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  芭蕉と曽良の像
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真っ白い仏(万物供養阿弥陀如来)         常行念仏堂 
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鐘 楼 

鐘 楼
除夜の招福の鐘として知られ、
元旦にかけて数千人の参拝者が
幸せを願ってこの鐘をつく
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  1. 2011/09/28(水) 08:08:32|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:16

奥の細道67   尾花沢

養泉寺
創建は慈覚大師が自ら観音像を彫り込み、災厄消除悪虫退散を祈願したところ、
害虫被害がなくなった事から信仰の対象になった。
その後、元和元年(1615)に現在地に移り、元禄元年に旧堂を再建、
明治28年に消失し、明治30年に再び造営された。
芭蕉は、俳人の島田屋鈴木清風を訪ねた際、
尾花沢10泊のうち7泊を、この寺で過ごした。
境内には、宝暦12年(1762)に建立された「涼し塚」がある。
最上三十三観音札所第二十五番。
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涼しさを 我が宿にして ねまる也
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ここは涼しい~~  芭蕉も、この風を感じたんだろうな~
晴れた日には、月山・鳥海山が見える。
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境内にあった、「ご詠歌の中に歌われている・いとすすき」
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養泉寺・・山形県尾花沢市梺町2-4-6 続きを読む
  1. 2011/09/26(月) 11:03:32|
  2. 奥の細道

能登の旅⑥

能登鉄道
穴水駅から七尾駅まで40分のローカル電車の旅
穴水駅
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普段は一両編成だが・・
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団体客がある時は、2両を連結する。
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今の車両の前は、この車両が走っていたが、今は使われていない。
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能登中島駅に置いてあった郵便列車。
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ボラ待ち櫓
昔、ボラ漁が盛んだった穴水近辺では他では見られない独特な漁法を用いていた。
その主要な道具がこの櫓。今は使われていないが観光用としておいてある。
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七尾駅
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  1. 2011/09/22(木) 09:45:03|
  2.   旅  

能登の旅⑤

親不知
名前の由来は、断崖と波が険しいため、親は子を、子は親を
省みることができない程に険しい道である事から・・
また、壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は越後国蒲原郡五百刈村
(現在の新潟県長岡市)で落人として暮らしていた。
夫の後を追って来た奥方は、京都から越後国を目指して、この難所に差し掛かった。
しかし、難所を越える際に、連れていた子供が波にさらわれてしまった。
その時に、「親知らず、子はこの浦の波枕、越路の磯の泡と消え行く」と歌った。
以来その子がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになった。という説もある。

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明治16年(1883)に、絶壁を切り開いて造られた道
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海の中に立っている親不知の東北自動車道
昔は、断崖絶壁の波打ち際を歩いて渡った。
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親不知・・新潟県糸魚川市の西端
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  1. 2011/09/20(火) 08:38:06|
  2.   旅  
  3. | コメント:20

能登の旅④ 能登金剛

機具岩(ハタゴイワ)
能登二見とも呼ばれる夫婦岩。夕陽が美しい。
この夫婦岩は、女性の岩の方が大きい。
左が女岩・・右が男岩
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ヤセの断崖
標高35mもの垂直状の断崖絶壁。
松本清張の『ゼロの焦点』の舞台として知られる。
名前の由来は、作物を作れないほどヤセた土地という説。
高さ35mの断崖の先端に立って、海面を見下ろすと
身がヤセる思いがするなど色々・・
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2007年3月、マグニチュード6.9の能登半島地震が発生し
ヤセの断崖は、半分以上も崩れ落ち、今は立ち入り禁止です。
崩壊前                 崩壊後
ヤセ やせ

義経の舟隠し
文治2年、兄・頼朝の厳しい追手から逃れる義経と弁慶が、
奥州に下る途中に、折からの海難を避けるため
入り江に48艘の舟を隠したと伝えられる岩場。
マウスオン2枚です 
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  1. 2011/09/18(日) 08:13:54|
  2.   旅  
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能登の旅③   能登金剛

能登金剛
約30kmに亘って奇岩、奇勝、断崖が連続する海岸で
能登半島国定公園の代表的な景観の一つ。
松本清張の小説「ゼロの焦点」の舞台となった事で、全国にその名を知られる。
一帯の海岸は日本海の荒波によって浸食されたもので、
名称は朝鮮半島有数の景勝地、金剛山に因み、
それに匹敵する景観という意味合いを持つ。
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虎  岩  (私には象に見えるけどな~)
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巌  門
波食によって形成された天然の洞門。
幅6m、高さ15m、奥行き60mにも及ぶ大規模なもの。
小舟は通れるし、陸側から歩いて行ける。
マウスオン2枚です 海側からと、陸側から
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鷹ノ巣岩
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碁盤島    自動スライド2枚です。
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岩のり収穫場
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幸せのがんもん橋
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  1. 2011/09/15(木) 23:51:28|
  2.   旅  
  3. | トラックバック:0
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能登の旅②   石川県

白米(シロヨネ)の千枚田
輪島市白米町の棚田。数が多いので千枚田と呼ばれるが、
狭い田が語源という説もある。最も小さい田の面積は、0.2平方メートル程度。
能登の里山里海が次世代に残すべき財産であると、世界農業遺産に認定されている。
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稲刈りが終ると、棚田がライトアップされる(パンフレットから)
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福がある洞窟・・福が穴
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最古の塩田
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ゴジラ岩
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禄剛崎灯台
能登半島の先端に位置し、日本海に面する岬。
古くから日本海航路の要所として重要視されていたため、
隔絶された地の割には集落が発展した。
特に一帯は海難事故が多かったため、航路を照らす狼煙(ノロシ)が
古くから上げられていた。現在の珠洲という地名は「すすみ」
(古訓で、のろしのこと)にちなむ。
この狼煙は明治16年(1883)に、白亜の石造灯台、
禄剛埼灯台が建設されるまで活躍していた。
能登半島国定公園の代表的な景勝地の一つで、
能登半島の外浦と内浦の双方にまたがるため、
朝日と夕日が同じ場所で見られることでも知られる。
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ノロシのモニュメント
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禄剛崎灯台・・石川県珠洲市狼煙町

聖域の岬
能登半島の最先端にあり、三崎町寺家の遭崎から金剛崎周辺に広がる岬。
岩礁地帯が続く一帯には、寒流と暖流が交わることから
自然界のパワーが集まると言われており、
日本三大パワースポットのひとつにも数えられている。
日本三大パワースポットとは、富士山と長野県の分杭峠(ゼロ磁場)と、この珠洲岬。
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葭ヶ浦温泉 ランプの宿
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展望台
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聖域の岬・・927-1451 石川県珠洲市三崎町寺家10-11 続きを読む
  1. 2011/09/13(火) 05:43:54|
  2.   旅  
  3. | コメント:10

能登の旅①    富山

友人5人と「グリーン車で行く、能登・巌門・聖域の岬・
のと鉄道を走破! 奥能登じっくり周遊と温泉露天風呂感動紀行」
という、なんとも長い名前のツアーに行って来た。
長野新幹線で、長野駅へ、そこからバスで移動・・・
長野・新潟を経て富山県へ
瑞龍寺
富山県高岡市にある曹洞宗の仏教寺院。
本尊は釈迦如来。開基は前田利常、開山は広山恕陽。
仏殿、法堂、山門の3棟が近世禅宗様建築の代表作として、
1997年に国宝に指定されている。
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総 門 (重要文化財)
正保年間に竣工。正面幅三間の薬医門形式。
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山 門 (国宝)
現存する門は文政元年(1818)に竣工。
2階建で上層と下層の境にも軒の出をつくるもので、屋根は入母屋造、?葺き。
二重門では下層の屋根を上層よりも大きくつくることが多いが、
この門では上層と下層の屋根の出があまり変わらない。
これは積雪時に上層屋根から落下した雪が
下層屋根に当たるのを防ぐためといわれる。
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回 廊 (重要文化財)
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禅 堂 (重要文化財)
延享3年(1746年)に焼失したが直後に再建された。
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回 廊 (重要文化財)
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大庫裏  (重要文化財) 
結露を防ぐために天井には漆喰が塗られ曲線になっている。
建物正面に韋駄天尊像が安置される。
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仏 殿 (国宝)
入母屋造、一重裳階(モコシ)付きの総欅造り、内部は土間床
屋根は当初?葺き(コケラブキ)であったが、現状は総重量約47トンの鉛瓦葺き。
鉛製の瓦を用いる理由は、非常時に鉄砲の弾にするためともいうが、
実際は冬季の積雪対策のためだという。自動スライド2枚です。
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法 堂   (国宝)  
明暦元年(1655)の建立。
総桧造りの入母屋造、銅板葺き。内部は畳敷き
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瑞龍寺・・富山県高岡市関本町35
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  1. 2011/09/09(金) 14:32:25|
  2.   旅  
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利尻島

北海道北部・稚内の西の日本海に浮かぶ円形の島・・利尻島
面積182.11km2、日本で18番目に広い島。
北には礼文水道を挟み、礼文島が浮かぶ。
地名語源は、アイヌ語のリー・シリ(高い島)
その名のごとく、島の中央には海抜1721mの利尻山がそびえ立つ
火山島であるが、有史以来火山活動の記録は無い。
島の東半は利尻富士町、西半は利尻町。
鴛泊港(利尻富士町)と沓形港(利尻町)から、稚内及び礼文島へのフェリーが就航
利尻空港から新千歳空港へは、飛行機(ANA)が就航している。
利尻山には高山植物がたくさん分布し、島の大部分は
利尻礼文サロベツ国立公園に指定されている。
本泊(モトドマリ)には1808年の会津藩樺太出兵の際、
利尻島隊の本陣が置かれていた。
嘉永元年(1848)7月1日、日本初のネイティブ英語教師となった
ラナルド・マクドナルドが上陸した。
別名利尻富士、富士と名のつく山は数多くあるが
本家より鋭がった山容、海上に浮ぶ独立峰など秀逸な山姿はピカ一かも。

一周すると16の姿が見られるという利尻富士
クリック、10枚です。
<<礼文島に渡るフェリーから見た利尻富士
non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

南浜湿原
6㌶の小さな湿原。火口跡に縄文海進による海面上昇で水がたまり、
今から4500年前頃誕生したと考えられている。湿原を構成する泥炭層
(植物が分解されず推積した層)は4㍍にもおよぶ。
こんなに見事な逆さ富士は、めったに見られないそうだ!
マウスオンして下さい ∑(・o・;) オヨヨ・・です。
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オタトマリ沼
マウスオンして下さい。


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姫 沼
大正6年に、点在する小沼と湧き水を利用して造られ湖。
ヒメマスを放流した事から名づけられた。
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201182024.jpg 201182025.jpg 201182026.jpg 201182027.jpg 続きを読む
  1. 2011/09/07(水) 09:44:14|
  2.   旅  
  3. | コメント:14

礼文島

礼文島は、北海道北部、稚内の西方60kmの日本海上にある。
人が住んでいる日本の最北(最北限という)
地名語源はアイヌ語のレプン・シリ(沖の島)
礼文水道を挟んで利尻島の北西にある。
海抜0メートル地帯から、高山植物が咲き乱れていることから別名花の浮島と呼ばれている。
人口は、平成23年1月31日現在、2,992人。一島一郡一町で礼文郡礼文町
礼文水道を挟んだ丸い島の、利尻とは対照的に、南北に細長い形状で、
最高点も490mの礼文岳、全体に低くなだらかな丘に覆われた周囲65kmの離島。
かにの親爪のような形をした島の北部、その西側にあるスコトン岬が島の最北端で、
沖の無人島のトド島を眺望することができる。
稚内と結ぶフェリーが発着するのが香深港で、島の玄関口で島の中心部。 <
香深港(カフカコウ)稚内からフェリーで、約2時間
< < < < < < < < < < < <
non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

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桃岩の反対側は、桃を二つに切ったようで、桃の種のように見える。 201181915.jpg 201181916.jpg
海にゴマアザラシが・・・
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トド島
201181919.jpg 続きを読む
  1. 2011/09/05(月) 09:05:26|
  2.   旅  
  3. | コメント:10

稚内北防波堤ドーム

稚内港にある大型の防波堤。
土木学会選奨土木遺産、北海道遺産に選定されている。
防波堤の外観としては異色なドーム状の形態から名づけられた。
長さ424mの古代ギリシア建築を彷彿とさせるエンタシス状の柱列群は
斬新な印象を与える。設計者は土谷実。
北海道大学を卒業して3年の26歳で、稚内築港事務所に赴任してきた北海道庁の技師。
北海道と樺太を結ぶ鉄道連絡船(稚泊連絡船)の桟橋など港湾施設の保護および、
桟橋を利用する乗客の便宜のために昭和6年(1931)から5年をかけて建設された。
建設後、稚内駅からドームの手前まで国鉄の線路を延長し、同駅の構内仮乗降場扱いで
稚内桟橋駅が開設され、乗客はドーム内を歩いて桟橋に待つ連絡船に乗り込んだという。
その後、第二次世界大戦を経て終戦を迎えたことから稚泊連絡船がなくなり、
これとともに稚内駅から桟橋駅に続く線路も消滅したが、
防波堤としての機能は維持されており、以後も礼文島や利尻島への航路など
多くの船が発着する稚内港を守り続けている。
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201181813.jpg 続きを読む
  1. 2011/09/03(土) 11:32:28|
  2.   旅  
  3. | コメント:12

関東大震災  東京都慰霊堂

マウスオンして下さい
<<


東京都慰霊堂
墨田区の横網町公園内にある慰霊施設。
大正12年(1923)9月1日突如として起こった関東大震災は
東京市の大半を焦土と化し、5万8千の市民が業火の犠牲になった。
このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠(軍服や軍靴を製造する工場)跡で、
当時横綱町公園として工事中だった。
ここは多くの罹災者の避難場所になったが、火災旋風が起こったため、
この公園だけで東京市全体の死亡者の半数以上の約3万8000人が死亡した。
震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように
祈念するために、昭和5年(1930)に、関東大震災の身元不明の遺骨を納め、
死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建された。
その後、第二次世界大戦による昭和19年・20年(1944・1945)の一連の空襲により、
再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える7万7000人あまりが死亡した。
昭和23年(1948)より東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、
死亡者の霊を合祀して昭和26年(1951)現在の姿となった。
本堂は伊東忠太設計によるもので、寺院風の建築となっている。
200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。
三重塔は高さ約41mで、基部は納骨堂となっている。
講堂には祭壇があり、震災死亡者、空襲死亡者の霊を
それぞれ合祀した巨大な位牌が2基祀られている。
公園の敷地は約6000坪、慰霊堂の建坪は377坪余
境内には、中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等がある。
又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園
及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が植えられてある。
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中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘
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墨田区横網二丁目3番地25号

今回はコメント欄を閉じさせていただきます。
次回、宜しくお願いします。


  1. 2011/09/01(木) 11:58:32|
  2. 東  京

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