すたのピンコロ日記

旅をして、美味しいものを食べて、毎日を楽しく!

奥の細道102   金沢

主計町茶屋街
金沢三茶街の一つで、平成11年(1999)全国で初めて旧町名が復活し
正式に主計町となった。
主計町茶屋街は、大正ロマン漂う浅野川大橋から下流の左岸にあり、
歴史は明治2年(1869)にさかのぼる。
町の名は、加賀藩士富田(トダ)主計(カズエ)の邸宅があったことに由来する。
現在、営業中の茶屋は四軒あり、芸妓は十二人。
三茶屋街の中で一番こじんまりした印象だが、
芸道にかける意気込みは熱く、厳しい稽古に打ち込んでいる

クルック・6枚です。

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北斗さんのソースをお借りしました


ひがし茶屋街
文政3年(1820)に金沢の中心部に点在していたお茶屋を集めたのが始まり
屋号を入れた行灯が玄関に掲げられ、木虫籠(キムスコ)と呼ばれる美しい出格子がある
古い町並みが残り、昔の面影を残している。
金沢城の北東に位置する「ひがし茶屋街」は、前田家が城下の守りを固める目的で集めた
「卯辰山寺院群」と女川で親しまれる浅野川の間にある。
藩公認の茶屋街にふさわしい格式と伝統を受け継ぎ、その風雅なたたずまいは
京都・祇園新橋と並んで国の伝統的建造物群保存地区に指定されるほど。
現在、営業中の茶屋は八軒あり、芸妓は十四人。
お座敷は「一見さんお断り」が原則だが、バーを併設する茶屋もあり、
こちらは気軽に入ることが出来る。
金沢でも人気の観光スポットとあって、界隈には伝統建築を生かした食事処や
和風カフェ、ショップなどが多数点在し、多くの観光客でにぎわう。
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  1. 2012/02/25(土) 09:48:09|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:11

奥の細道101    金沢

成学寺
塀の上にのった風神、雷神の石像が面白い。
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俳人・堀麦水らが宝暦五年(1755)に建てた「蕉翁墳(碑は麦水の筆)」がある
あかあかと 日はつれなくも 秋の風
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成学寺・・金沢市野町1-1-18



長久寺
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秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子
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長久寺・・金沢市寺町5



久保市乙剣宮
「久保市さん」の愛称で親しまれている神社で
金沢の文豪・泉鏡花の生家に近く、幼少の頃遊び場にしていたといわれる。
境内には「泉鏡花出生の碑」があり、境内左奥には「暗がり坂」の階段がある。
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久保市乙剣宮・・金沢市尾張町2-16-71
  1. 2012/02/23(木) 09:02:30|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:5

大江戸街歩き   芝公園  

芝東照宮
日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つ。
芝公園の一角にあり、元来は増上寺内の社殿だった。
徳川家康が慶長6年(1601)に還暦を迎えた記念に
自らの像を刻ませた寿像を、自身が駿府城に祭祀していた。
元和2年(1616)家康は死去に際して寿像を祭祀する社殿を
増上寺に建造するよう遺言した。同年10月に着工し翌元和3年(1617)
2月に竣工した。この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」から
安国殿と呼ばれた。これが芝東照宮の起源。
その後、3代将軍家光により寛永10年(1633)新社殿が造営され、
旧社殿は開山堂となった。寛永18年(1641)移転改築がされた。
駿府城より移築された惣門、福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居、
本殿の周囲に拝殿、唐門、透塀が造営され豪奢な社殿が整った。
明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となった。
本殿は大正4年(1915)旧国宝に指定されたが
昭和20年(1945)5月の東京大空襲により寿像と神木のイチョウを残し、
あとは全焼し、昭和44年(1969)現在の社殿が再建された。
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所在地・・港区芝公園4-8-10


芝大神宮
一条天皇の御代、寛弘2年(1005)伊勢の内外両宮を勧請して創建
日向国鵜戸郡から得た鵜戸石と剣を神宝として奉納した。
源頼朝は元暦元年(1185)と建久4年(1193)の2度に亘って神領を寄進し、
太田道灌の崇敬を受け、豊臣秀吉や徳川家康も社参した。
慶長3年(1598)増上寺が当神社の旧鎮座地(芝公園)へ移転したため
現在地(港区芝大門)へ奉遷した。
江戸時代には伊勢神宮の祭神を祀り、参詣者が増えてた。
度重なる火災や、関東大震災、東京大空襲により
焼失したが、その度に再建された。
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所在地・・港区芝大門1-12-7

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  1. 2012/02/22(水) 09:29:30|
  2. 東  京
  3. | コメント:8

大江戸街歩き    徳川家の霊廟

増上寺


徳川家の霊廟は通常は一般公開されいませんが
1月15日、4月2~8日、5月10日、5月15日
9月15日、10月2日、10月9・10日のみ特別公開されます。

徳川将軍家の菩提寺として、かつては秀忠の霊廟を中心とした
南廟(現在のゴルフ場敷地)と、六代家宣、七代家継の霊廟を
中心とした北廟(現在の東京プリンスホテル敷地)があり、
その華麗さは、日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、
昭和20年3月の東京大空襲により、その大半が焼失した。
昭和33年に実施された改葬のより、徳川家の墓所は
安国殿裏手のこの一画にまとめられた。


鋳抜門


二代・秀忠と正室・お江二代・秀忠と正室・お江
秀忠は家康の第3子として、天正7年(1579)に生まれる。慶長10年(1605)第2代将軍に・・将軍職にあること18年。
寛永9年(1632)54歳で逝去。
六代・家宣
家光の三男綱重の子として寛文2年(1662)に生まれる。将軍職を継ぎ、新井白石等を重用し政治の刷新をはかり、生類憐みの令を
廃止するなど、正徳の治をなしとげたが、
将軍職わずか3年にして病に倒れ、
正徳2年(1712)51歳の生涯を閉じた。
六代・家宣
七代・家継七代・家継
家宣の第3子として、宝永6年(1709)に生まれる。父家宣の逝去とともにわずか3歳で将軍職についた。家継は元来病弱で、
正徳6年(1716)8歳で短い生涯を閉じた。
九代・家重
八代・吉宗の長子として、正徳元年(1711)に生まれる。体が弱く49歳で将軍職を譲り、
宝暦11年(1761)51歳で逝去。
九代・家重
十二代・家慶十二代・家慶
家斉の第2子として、寛政5年(1793)に生まれる。天保8年(1837)12代将軍となった。天保の改革に着手するが、失敗に終わり、
幕府は没落の道を進む。
嘉永6年(1853)61歳で逝去。
十四代・家茂
十一代家斉の子、斉順の長子として弘化3年()に生まれる。安政5年、将軍家の養子となり14代将軍となった。世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄がはじまった。事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王を正室に迎えた。尊皇攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂は第1次長州征伐を指揮し、第2次長州征伐中の慶長2年(1866)21歳で
大阪城で病没した。
十四代・家茂
十四代・家茂の正室<br
十四代・家茂の正室・皇女和宮
14代将軍家茂の正室、仁孝天皇の第8皇女として弘化3年(1846)に生まれる。和宮は嘉永4年、6歳の時に有栖川宮と婚約が成立したが、婚儀間近になって公武合体策によって15歳の時に降嫁。家茂死後、落飾して静寛院と称した。明治10年(1877)31歳で逝去。


合祀塔
歴代将軍の側室や子女、実母などが
埋葬されている。
合祀塔

所在地・・港区芝公園4-7-35

今回はコメント欄を閉じさせていただきます。
  1. 2012/02/21(火) 12:13:41|
  2. 東  京

大江戸街歩き   六本木界隈

永井坂
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秀忠縁
秀忠が江戸城の紅葉山から楓を移植して、紅葉の名所となった。
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金地院
南光坊天海(慈眼大師)と共に「黒衣の宰相」と呼ばれた
金地院崇伝(国師号は円照本光)の開山。
元和4年(1618)、江戸城内北の丸付近に創建されたが
三代家光の命で現在地に移築された。
開山の金地院崇伝は、天海僧正と共に家康・秀忠・家光の
三代の将軍に政治・政策のブレーンとして仕え、
京都と江戸の金地院を行き来しながら、政務を執った。
昭和20年3月10日の東京大空襲で全焼し、
その焼け跡に昭和33年、東京タワーが建てられた。
現在の本堂は、昭和31年に再建された。
現在も京都・南禅寺東京出張所。
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このお墓は誰の?
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よく見ると近藤勇の字が読み取れる。
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所在地・・港区芝公園3-5-4

  1. 2012/02/20(月) 08:29:39|
  2. 東  京
  3. | コメント:4

大江戸街歩き   六本木界隈

きみちゃんの像
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賢崇寺
佐賀鍋島藩の歴代藩主の菩提寺として寛永12年(1635)に創建。
大名の墓城として整った形式が残っているのは都内でも珍しい。
三代将軍・家光の頃まで続いた「追い腹」
(殿が死ぬと重臣たちが自刃する風習)の墓が痛々しい。
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殉死した重臣たちの墓
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二十二士の墓
昭和11年の2・26事件の関係者22名の墓。
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所在地・・港区元麻布1-2-12

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  1. 2012/02/17(金) 19:03:09|
  2. 東  京
  3. | コメント:9

大江戸街歩き   六本木界隈

善福寺
天長元年(824)に弘法大師・空海によって開山され
その規模を高野山にならったので新高野とも呼ばれ関東屈指の霊場だった。
鎌倉時代になって越後国に配流になっていた親鸞が布教し
浄土真宗に改宗したとされ、その後、各時代の天皇や幕府などの保護を受けて発展。
安政5年(1859)、日米修好通商条約に基づき当寺院内に
初代アメリカ合衆国公使館がもうけられ、タウンゼント・ハリスらが在留した
当寺院に墓所がある福澤諭吉も出入りしていた


勅使門
後ろに聳え立つビルは「元麻布ヒルズ」
このビルが建っている辺りも、昔は善福寺の敷地だった。
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日米修好通商条約の碑
戦時中は他所に隠されていた。
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開山堂
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福沢諭吉の墓                  越路吹雪の碑
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柳の井戸
参道にある井戸
弘法大師が柳の木の下で錫杖を立てたところ
湧き出したという。震災や空襲の時には、多くの人が
飲み水として利用した。
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所在地・・港区元麻布1-6-21

  1. 2012/02/16(木) 16:24:04|
  2. 東  京
  3. | コメント:3

大江戸街歩き   六本木界隈

六本木は坂が多い。そんな坂を歩いてみた。

六本木の地名の由来
6本の松の木があったという説や、上杉、朽木(クツキ)高木、青木、
片桐、一柳という樹のつく大名屋敷が6つあったという説がある。
六本木が町として形をなしたのは江戸時代。
寛永3年(1626)に亡くなった、二代将軍秀忠夫人・江姫(崇源院)の火葬を
麻布の原で行なった。同5年(1628)に三回忌の法事を勤めた5ヶ寺が
この一帯を拝領し、門前町を開いたのが始まり。

饂飩(ウドン)坂
天明年間(1788)頃まで、松屋伊兵衛という人がこの辺りで
うどん屋を開いていたからという説
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芋洗坂
付近に芋問屋が存在していた。付近の神社に芋を持ち込んで
市を開いていた。付近の川で芋を洗った。など諸説がある。
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朝日神社
天慶年中(940)草創と伝えられる。
はじめ市杵島大神(弁財天)を祭り、当地の鎮守社だった。
その後、大和の武将・筒井順慶の姪で、のちに織田信長の
侍女となった朝日姫(清心尼)が、渋谷から長者ヶ丸(現・青山辺)を
過ぎる途中、草むらに光輝く稲荷の神像と観音像を見つけ
観音像は専称寺(沖田壮士の墓所)に贈り、稲荷の像をここに祀った。
弁財天と合祀して「日ヶ窪稲荷」→「朝日稲荷」と改名し
明治28年に朝日神社となった。
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暗闇坂
昔は両側に鬱蒼と木が茂り、真昼でも暗かったのでこの名がついた。
坂の途中にオーストリア大使館がある。
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一本松坂
現在の松は五代目で「冠の松」「秋月邸の羽衣の松」と呼ばれる。
関ヶ原の合戦で送られて来た首を、家康が検分して埋めた場所で
「首吊塚」ともいわれ、平将門を討伐に来た源経基が
将門の屋敷を内偵しての帰り道に、一軒の民家に泊まり
料理を振舞われた礼に自分の装束を脱いで掛けたなどの説がある。
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大黒坂             仙台坂
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  1. 2012/02/15(水) 08:21:36|
  2. 東  京
  3. | コメント:5

鎌倉を歩く

常栄寺
創建は慶長11年(1606)、日蓮宗の寺院で
文永8年(1271)、日蓮上人が瀧の口法難にあって刑場に引かれていく時、
ここに住んでいた桟敷尼が「ぼた餅」を捧げたのが由来で、
通称「ぼた餅寺」といわれる。
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所在地・・鎌倉市大町1-12-11
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  1. 2012/02/13(月) 18:37:44|
  2. 鎌  倉
  3. | コメント:3

鎌倉を歩く

妙本寺
比企の乱で知られる、比企一族の邸宅跡。
比企能員の妻は2代将軍・頼家の乳母で、その娘若狭局は頼家の側室だった。
その勢力を警戒した北条氏は策謀して比企一族を滅ぼした。
難を逃れた能員の子、能本は一族の菩提寺として開基も能本と伝えられる。
日蓮聖人に帰依した能本が邸を喜捨、妙本寺が創建された。
山号の長興は能本の父能員の法号、寺号の妙本は母の法号。
日蓮聖人が身延に隠遁すると、直弟子の日朗はここを拠点に布教を行い、
やがて同寺は日朗門下の拠点として信仰を集めた。
日蓮宗の格式高い寺として、代々の住職は昭和22年(1947)まで
東京・池上本門寺の住持を兼務していた。 

総  門
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方丈門
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本  堂
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二天門
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祖師堂
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所在地・・鎌倉市大町1-15-1
  1. 2012/02/12(日) 08:36:36|
  2. 鎌  倉
  3. | コメント:5

鎌倉を歩く 

本覚寺
鎌倉市にある日蓮宗の本山
現在の山門がある場所の前に、源頼朝が鎌倉幕府の開幕の際に、
幕府の鬼門にあたる鎮守として建てた夷堂があった。
文永11年(1274)に佐渡配流から帰った日蓮が一時、
この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていた。
永享8年(1436)に一乗院日出が日蓮にゆかりの夷堂を
天台宗から日蓮宗に改め本覚寺を創建した。
身延山久遠寺を再興した、第2世の行学院日朝は、
身延山への参詣が困難な老人や女性のために、
身延山より日蓮の遺骨を分骨して本覚寺に納めたため
「東身延」とも呼ばれる。
眼の病気を治してくれる寺として知られ、「日朝さま」の愛称で親しまれている。
日朝が眼の病気を患ったとき、法華経と自らの回復力によって
治癒したというのが由来。
境内に建つ夷堂は、縁結びや商売繁盛の神様として参拝客が多い。
正月、商売繁盛を祈願して福娘がお神酒をふるまう姿は鎌倉の風物詩となっている。
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夷  堂
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鐘  楼
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本  堂
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日蓮上人御分骨堂
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所在地・・鎌倉市小町1-12-12
  1. 2012/02/10(金) 19:35:48|
  2. 鎌  倉
  3. | コメント:3

鎌倉を歩く

銭洗弁財天
平安末期、鎌倉は災害が続き貧困にあえぐ庶民のために、
源頼朝が世の救済を祈願したところである。
巳の年の文治元年(1185)の巳の月、巳の日の巳の刻、
宇賀福神から「この地に湧き出す水で神仏を供養せよ、
そうすれば天下泰平の世が訪れる」と
源頼朝の夢にお告げがあり、そこで源頼朝は
この地に社を建てて賀福神を祀った。
その後、世の中の混乱は収まったと伝えられている。
この話が発展していつの頃からか、
その霊水でお金を洗うと倍になると言う信仰が生まれた。
鎌倉五名水の一つである。巳の日の縁日には参拝者で賑わう。
洞窟の口もとに社があり、社は宇賀福神で洞窟の中の社は銭洗弁財天である。
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絵馬舎
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宇賀福神社
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銭洗弁財天
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上之水神宮     マウスオン2枚です 
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下之水神宮     マウスオン2枚です 
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所在地・・鎌倉市佐助2-25-16

明日から9日まで出かけてきますので、コメント欄を閉じさせていただきます。
  1. 2012/02/06(月) 15:30:48|
  2. 鎌  倉
  3. | コメント:4

白川郷


岐阜県内の庄川流域の呼称である。
大野郡白川村と高山市荘川町(旧荘川村)および
高山市清見町(旧清見村)の一部に相当し、
白川村を「下白川郷」、他を「上白川郷」と呼ぶ。
今日では白川村のみを指すことが多い。
白川郷の荻町地区は合掌造りの集落で知られる。
独特の景観をなす集落が評価され、1976年
重要伝統的建造物群保存地区として選定、
1995年には五箇山(相倉地区、菅沼地区)と共に
白川郷・五箇山の合掌造り集落として、
ユネスコの世界遺産に登録された。

一面の雪景色に感動~~      マウスオン2枚です 
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雪降ろしをしてる、大変な作業だ・・・落ちないでね~
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若林家 
白川郷の建物の特徴は、三角の方ではなく、平面の方が出入口になっている。
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長瀬家      マウスオン・クリック、3枚です 
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本覚寺
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所在地・・岐阜県大野郡白川村飯島
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  1. 2012/02/05(日) 08:11:23|
  2.   旅  
  3. | コメント:6

五箇山

五箇山
富山県の南西端にある南砺市の旧平村、旧上平村、旧利賀村を合わせた地域を指す。
赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の五つの谷からなるので
五箇谷間となり、五箇山となった。
平家の落人が住み着いたと伝えられている。
1183年、富山県と石川県の県境にある倶利伽羅峠で、木曾義仲(源義仲)と
平維盛(平清盛の孫)が戦った(倶利伽羅峠の戦い)
この時、義仲は火牛の戦法で平家に大勝した。
その残党が五箇山へ落人として逃げ隠れたとされる。
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五箇山の建物の特徴は、三角の屋根の方が出入口
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村上家
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江戸時代には、加賀藩の流刑地とされ、加賀騒動の大槻伝蔵もこの地へ流された。
流刑地である五箇山には当地を流れる庄川に橋を掛けることが許されず、
住民はブドウのつるで作った大綱を張り、籠をそれに取り付けて
籠渡しとして行き来した(現在でも残っており、人の代わりに人形が川を越える)
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雪に埋もれた白山神社の鳥居
一の鳥居は雪が積もり、二の鳥居はテントで覆われていた。

マウスオン・クリック、3枚です 
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  1. 2012/02/02(木) 19:09:48|
  2.   旅  
  3. | コメント:6

奥の細道100    倶利伽羅峠

倶利伽羅峠
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源平倶利伽羅合戦場跡
寿永2年(1183)信州の木曽山中で兵を挙げた源義仲は、
十万の兵を率いて京都から下り、平維盛の軍と、ここ倶利伽羅山で戦った。
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2枚です。素早くマウスオン・アウトしてください。 
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猿ヶ馬場
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猿が堂
その昔、原という所に賢い猿がいて、
人間の真似をして
幼児を熱い湯に入れて死なせた。
猿は追われてこの土地に住み、
旅人などに悪さを重ね、殺された。
元の飼い主が弔い、お堂のたてたという。


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源平供養塔
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為盛塚
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  1. 2012/02/01(水) 09:08:15|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:6

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