すたのピンコロ日記

旅をして、美味しいものを食べて、毎日を楽しく!

奥の細道125   敦賀

芭蕉の句碑
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金前寺
天平8年(736)の開創で、もとは気比神社の奥の院。
芭蕉も訪れており、宿の主人から金ヶ崎落城のこと、
沈鐘の由来を聞いて「月いづこ 鐘は沈る うみのそこ」と詠んでいる。
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金ヶ崎城跡
金ヶ崎の退き口、または金ヶ崎崩れとも呼ばれ
戦国史上で有名な撤退戦の一つである。
元亀元年(1570)4月、朝倉義景討伐のために、織田信長が
越前に攻め込もうとしたとき、近江の浅井長政の裏切りの報が入る。
一気に窮地に追い込まれ、急遽総退去した信長だったが
この時、金ヶ崎でしんがりを努めた木下藤吉郎の活躍で
信長は、最大の危機を切り抜け無事帰京できたという。
金前寺の脇から城跡へと上る
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金崎宮
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金ヶ崎城跡
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所在地・・福井県敦賀市金ヶ崎1-1


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  1. 2012/05/31(木) 10:25:16|
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奥の細道124   敦賀

松原神社
元治元年(1864)武田耕雲斎が率いる水戸天狗党は尊皇攘夷を唱えて挙兵。
朝廷に志を訴えようと京都へあがる途中、敦賀で捕えられた。
幕府が厳しい処罰を下し、翌年353名が斬首されたという。
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所在地・・福井県敦賀市松島町2丁目


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  1. 2012/05/29(火) 09:05:45|
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奥の細道123   敦賀

本隆寺
古くは禅宗寺院で金泉寺と称していたが、応永33年(1426)に
日隆上人が来錫した折りに改宗した。
芭蕉は、元禄2年(1689)8月16日、敦賀から舟で色浜に着き、
本隆寺に宿をとったが、民家と間違えるほどの侘びしい佇まいだった。
西行の「まほすの貝」の歌が有名で、芭蕉も尊敬する西行に思いを馳せて
これまでの旅を振り返ったという。
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芭蕉の句碑「萩塚」   小萩ちれ ますほの小貝 小盃 1222123.jpg
衣着て 小貝拾わん いろの月
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開山堂
日隆聖人の祈祷石を囲んで建てられた堂宇
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芭蕉の句碑「寂塚」   寂しさや 須磨にかちたる 濱の秋
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浜辺で拾った、米つぶ位の「まほすの貝」
大きさは5ミリくらい
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所在地・・福井県敦賀市色浜
  1. 2012/05/27(日) 09:03:24|
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奥の細道122   敦賀

気比神宮
大宝2年(702)の建立7といわれ、北陸道総鎮守・越前国一宮として鎮座している。
高さ11㍍の大鳥居は春日大社、厳島神社と並ぶ、日本三大木造大鳥居の一つ。
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大鳥居
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non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

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所在地・・福井県敦賀市曙町11-68 続きを読む
  1. 2012/05/24(木) 21:56:03|
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奥の細道121   板取

板取宿
栃の木峠越えで峠を北に下りたところにある。
慶長5年(1600)徳川家康により結城秀康が越前に封ぜられると、
越前、近江の国境である栃の木峠下の板取を最も重要視し、
口留番所を置き、出女、入鉄砲を警戒し、往還の旅人を取り締まった。
今は、茅葺妻入兜造り型民家が2戸、
茅葺妻入入り母屋造りの民家が2戸あるだけ。
集落の家並みは妻入りに統一され、妻側の茅葺の屋根のすそを切り上げて
2階の採光・通風にあてた兜造りで、軒桁が美しく飾られている。
昭和50年代に全戸県内に移住して無住の集落になった。
自動スライド2枚です。
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板取関所跡
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所在地・・福井県南条郡南越前町板取


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  1. 2012/05/23(水) 09:35:54|
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奥の細道120   今庄

今庄宿
日野川上流、山間の盆地で、東・南・西の三方を山々に遮られ、
北方だけが開けた県内屈指の豪雪地帯。 
金沢城下から中山道鳥居本宿間の北国街道の宿場として
越前で最も繁栄した宿場。
この栃の木峠越えは、江戸参勤には最短路で、福井から今庄宿までは
約8里あるので、旅人の多くがここで宿泊した。
今も昔風の家屋が軒を連ねる町並みは、その長さや道の形や
短冊型の屋敷割が殆ど変わらずに昔の面影を残している。
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自動スライド2枚です。
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脇本陣→昭和会館      マウスオン2枚です 
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町並みは切り妻造り、二階建て、中二階建て、平入り、袖壁、格子、
大戸があり本卯建の上がった家もある。
ただこの町並みの伝統的な家屋では、屋根の構造が少し変わっていて、
屋根を支えている太い梁が軒先まで出ている登梁の構造で、
雪の重みに耐えられるように作られていて、力強さを感じる建て方である。
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Sakuraさんのソースをお借りしました

所在地・・福井県南条郡南越前町今庄
  1. 2012/05/21(月) 09:59:40|
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奥の細道119   福井

福井城跡
越前松平家17代にわたる繁栄の舞台となった名城。
北陸の押さえとなる福井を治めるため、徳川家康が最も信頼できる人物として
自身の次男・結城秀康に領地を与え、建物や城門などの
配置を決める縄張りをしたと伝えられる。
四層五階の雄大な天守閣がそびえていたが、寛文9年(1669)の大火で焼失した。
足羽川と荒川を外堀として利用した環郭式縄張りの城。
かつては、幾重にも回らされた濠も今では埋め尽くされ内堀だけ残っている。
本の丸跡には福井県庁が建っている。
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藩主が本丸と三の丸御座所への往復に使用した「御廊下橋」は
平成20年3月に復元された。
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所在地・・福井県福井市大手3丁
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  1. 2012/05/19(土) 07:30:01|
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奥の細道118   福井

新田塚
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所在地・・福井市新田塚町


西光寺
一乗谷城主・朝倉貞景が家臣・上田兵衛尉に
命じて創建されたが、朝倉滅亡後、柴田勝家が天正4年に
次朗丸より北ノ庄に移し菩提寺とした。
お市の方とともに、北庄城で命を絶つに先立ち
三姉妹の将来などを住職に託したと伝えられる。
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柴田勝家とお市の方の墓
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所在地・・福井市左内町8-21


左内公園
橋本佐内の墓と像がある。
橋本佐内は幕末の福井藩士で、藩主・松平春嶽の右腕として
将軍継嗣問題、外交問題について開国派として奔走した。
他藩の志士とも交友が深く、薩摩藩の西郷隆盛は
自分が年上にも関わらず「君を兄として仕える」とまで言い
左内の優れた才能に敬服していたという。
しかし、安政の大獄により捕らえられ、26歳の若さで斬首された。
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橋本佐内の墓
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啓発録
嘉永元年(1848)橋本佐内が15歳の時に、自分の生活を反省して
自分自身を激励し、言い聞かせる意味で述べたもの
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また一角には、芭蕉宿泊地洞哉宅跡の碑がある。
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所在地・・福井県福井市左内町


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  1. 2012/05/17(木) 08:24:47|
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会津の旅③

会津若松城
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白虎隊
慶応4年(1868) 鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。
会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。
白虎隊は16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊。
中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいた。
会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく若松へと至る街道口に
主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る
新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった
十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、
少年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが
老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、
白虎隊は各防衛拠点へと投入された。
一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、
二番隊は戸ノ口原で決定的打撃を受けて潰走し、
負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びたが、
ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を、
若松城が落城したものと誤認して悲観、総勢20名が自刃を決行し、
一命を取り留めた飯沼貞吉を除く19名が死亡した。
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厳島神社     マウスオン2枚です 
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     宇賀神     白虎隊19士霊神 
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19名の墓
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白虎隊自刃の地      
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所在地・・会津若松市追手 1-1

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  1. 2012/05/15(火) 12:04:03|
  2.   旅  
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会津の旅

去年の2月、雪の大内宿に行きました。
今年は新緑の大内宿を見たくて友人と7人で行って来ました。

湯野上温泉駅   構内はお土産屋さん
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駅を出ると温かい温泉が流れていた。
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クリックして下さい⇒大内宿


クリック・15枚です
<<大内宿全景
non_nonさんのブログの小技からお借りしました。


クルック・7枚です
<<宿並みにある鳥居をくぐって(一の鳥居かな)
non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

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所在地・・南会津郡下郷町大字大内 続きを読む
  1. 2012/05/14(月) 10:52:25|
  2.   旅  
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会津の旅

塔のへつり
福島県会津地方の南会津東部を流れる大川が形成する渓谷で、
大川羽鳥県立自然公園の一角を占める。
一帯は第三系凝灰岩、凝灰角礫岩、頁岩などが互い違いになっていて
その軟岩部が長年の歳月による浸食と風化の作用によって
形成された柱状の断崖で、新緑や紅葉の頃は一際美しい。
全長200mにわたって屏風岩、烏帽子岩、護摩塔岩、九輪塔岩、櫓塔岩、
獅子塔岩、鷲塔岩などの大規模な奇岩が整列している。
へつりとは会津方言で、川に迫った険しい断崖のこと。
漢字では、(山冠に弗)と書く。

小さな駅舎と駅構内
マウスオン・クリック、3枚です 
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野口英世がこよなく愛した、会津鉄道
クリック・5枚です。
<<
non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

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non_nonさんのブログの小技からお借りしました。
所在地・・福島県南会津郡下郷町
  1. 2012/05/11(金) 16:00:58|
  2.   旅  
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あしかがフラワーパーク


約9万2000平方メートルの園内に四季折々の花が咲き乱れる花のテーマパーク。
念願の大藤を見に行って来ました。
栃木県の天然記念物にも指定されている、樹齢145年を越える600畳敷の大藤棚3面。
世界でも珍しい八重の大藤棚、長さ80mもの白藤のトンネル、
きばな藤のトンネル、そしてスクリーン仕立てで池に映る水鏡効果の藤など、
350本以上の藤が咲き誇っています。
<左説明文>
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Sakuraさんのソースをお借りしました


薄紫の藤も綺麗だった。
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可愛いカメラマン
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キバナフジは、5月中旬頃が満開。
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つつじと藤のコラボ
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所在地・・足利市迫間町607 続きを読む
  1. 2012/05/08(火) 09:03:33|
  2.   花
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奥の細道117

永平寺
山号は吉祥山。本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏。
總持寺と並んで日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。
寛元2年(1244)道元禅師によって坐禅修業の道場として開かれた。
樹齢680年といわれる老杉に囲まれ、33万平方メートルに及ぶ
広大な敷地には、僧侶の修行の中心となる七堂伽藍(山門・仏殿
法堂・僧堂・大庫院・浴室・東司)と呼ばれる建物をはじめ
大小70余りの建物が静かにたたずんでいる。
約750年の伝統を誇る永平寺は、
今もつねに200余名の修行僧が日夜修行に励んでいる。
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non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

山門の四天王像
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所在地・・福井県吉田郡永平寺町志比5-15 続きを読む
  1. 2012/05/05(土) 16:19:33|
  2. 東  京
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奥の細道116

天龍寺
永平寺の末寺で、松岡藩主松平家の菩提寺。
承応2年(1653)松岡の初代藩主・松平昌勝の命によって
昌勝の亡き祖母の平安を念じて建てられた。
寺の住持である大夢和尚と芭蕉は旧知の間柄だった。
境内には芭蕉の句碑がある。
物書きて 扇引きさく なごりかな
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汐越の松
吉崎対岸の浜坂にあった松で、芭蕉当時の松と
伝えられている枯れ木が残っている。
汐が満ちてくると、その枝まで海水が上ってきて
枝が海中に没するところから名づけられたという。
現在は、芦原ゴルフクラブのコース内の小山の中腹に
ねじれた松の枯れ木が横たわっている。
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福井県永平寺町

  1. 2012/05/04(金) 10:49:05|
  2. 奥の細道
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奥の細道115

吉崎御坊
文明3年(1471)7月下旬、比叡山延暦寺などの迫害を受けて
京から逃れた本願寺第8世法主蓮如が、本願寺系浄土真宗の
北陸における布教拠点として越前吉崎にある北潟湖畔の吉崎山の頂に建立した。
吉崎は興福寺大乗院の門跡であった経覚の所領であったが、
経覚の母が本願寺の出身で、蓮如も若い頃に経覚の元で修行していた事、
また偶々吉崎の代官の地位にあったのが当時の本願寺にとっては
数少ない末寺であった和田本覚寺の住持蓮光であったという関係もあって
経覚が蓮如のために吉崎を譲ったのだといわれている。
蓮如は教義を民衆にわかりやすく説き、時には御文を用いたり、
「南無阿弥陀仏」の六字名号を下付したため、
御坊には北陸はもとより奥羽からも多くの門徒が集った。
また、御坊周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが立ち並び寺内町を形成した。
文明6年(1474)3月28日、火災で焼失したが、その後再建した。
御坊跡に向う階段の西側に浄土真宗本願寺派の別院
東側に真宗大谷派の別院がある。
ともに「吉崎別院」と称するので、本願寺派の別院を「西御坊」
大谷派の別院を「東御坊」と通称される。

念力門
吉崎御坊跡に延享3年(1746)に西別院(本願寺派)が建立された。
この門を念力門といい、天正19年(1591)豊臣秀吉が
京都の西本願寺に寄進したもので元治元年(1864)「蛤御門の戦い」の時、
兵火から本願寺の堂宇を守った由来により「火消門」ともよばれた名高い門。
昭和24年(1949)11月西本願寺より御下附
(当時輪番福井正善寺住職、巨橋義信師)百余名の信徒によって
京都から二百五十粁(約60里)16台の荷車で念仏のかけ声と共に運ばれた。
なお、念力門の名は西本願寺第23世、勝如上人によって命名された。
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西御坊     マウスオン2枚です 
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東御坊     マウスオン2枚です 
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蓮如上人像     マウスオン2枚です 
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福井県あわら市吉崎2

  1. 2012/05/02(水) 11:07:51|
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