すたのピンコロ日記

旅をして、美味しいものを食べて、毎日を楽しく!

山陽道⑦ 昆陽宿

有岡城跡

マウスオンして下さい。


クリック・5枚です。
<<有岡城跡
non_nonさんのブログの小技からお借りしました。
所在地・・兵庫県伊丹市伊丹1丁目・2丁目



宮水発祥の地
全国名水100選の西宮「宮水」は六甲山系からの伏流水で、
鉄分が少なくリン、カルシウム、カルウムなどが多く含まれている。
このミネラル成分が酒造りには欠かせない酵母の発酵を促進させる事から
このあたりでは昔から、酒造りが盛んだった。
百の歳から歌声もれる いつものどかな酒の町
戦前の西宮音頭は、酒の町・西宮をこんな風に歌った。
昭和20年の大戦で酒蔵の大半が焼失
さらに技術革新が酒造りを大きく変え、鉄筋コンクリートの酒蔵の出現で
酒の町の風情も大きく変わった。
しかし、灘の名酒のいのちともいえる宮水は変わる事なく
宮水地帯に湧き、それぞれの井戸場から汲み出されて
灘の酒蔵に送られている。
1252964m.jpg

酒蔵のある街並み

岡田家
伊丹は江戸積酒造業の銘醸地として発展
伊丹の酒「丹醸」は江戸ではうまい酒の代名詞で
将軍家の御膳酒になったこともあった。
正徳5年(1715)には72軒の造り酒屋が軒を連ねていた。
1252957m.jpg 1252958m.jpg 1252959m.jpg
マウスオン・クリック、3枚です 
<
1252963m.jpg
所在地・・兵庫県伊丹市
スポンサーサイト
  1. 2012/06/30(土) 09:36:18|
  2. 街道巡り
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

山陽道⑥   瀬川宿

萱野三平屋敷跡
浅野内匠頭の切腹とお家取り潰しの報せを赤穂まで早籠で伝えた
萱野三平の屋敷跡である。忠臣蔵の討ち入りの11ヶ月前の主君の命日に
討ち入りに反対した父と主君への忠義の板挟みに悩み自決した。
長屋門が残されている。
三平は、江戸の俳人水間沾徳(セントク)の門下で
大高源五(子葉)・神崎与五郎(竹平)らと共に涓泉の俳号でも知られる人であった。
1252940m.jpg

クルック・8枚です。
<<
non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

萱野三平、辞世の句 「晴れゆくや日ごろ心の花曇り」
マウスオン2枚です 
<
所在地・・大阪府箕面市萱野 3-10-4
  1. 2012/06/29(金) 09:27:30|
  2. 街道巡り
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:5

山陽道⑤   芥川宿

高槻城跡
室町時代は入江氏の居城であったが、織田信長に滅ぼされ
その後和田惟政、次いで高山右近が城主となった。
豊臣氏滅亡後は、高槻藩の藩庁として用いられ
度々城主が入れ替わった。
明治7年(1874)に廃城となり、東海道線が敷設される際
石垣や木材などが、その資材にあてられた。
現在は一部が城跡公園として整備され復元石垣がある。
マウスオンして下さい。

マウスオン2枚です 
<

所在地・・大阪府高槻市城内町・野見町・大手町他



郡山宿本陣
旧西国街道の郡山宿の本陣。
御成門脇に咲く椿が有名であった事から別名「椿の本陣」とも呼ばれる。
この本陣ができたのは寛永12年(1635)であり、
明治はじめの廃藩まで約240年余続いていたとされる。
奈良時代から重要な道として存在し、
京都や奈良から西へ向かう主要幹線道路の役目を果たしていた。
江戸時代には京都・西宮間の街道にある5つの宿場のちょうど中間点にあるため、
西国大名等の参勤交代等に利用されていた。
浅野内匠頭長矩も、元禄13年(1700)に宿泊している。
1252926m.jpg
1252927m.jpg
1252928m.jpg
1252929m.jpg
1252930m.jpg


所在地・・大阪府茨木市宿川原町
続きを読む
  1. 2012/06/28(木) 09:26:09|
  2. 街道巡り
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

山陽道④   山崎宿

桜井駅跡
古代、馬など旅に必要なものを備えた宿駅の跡。
「太平記」によると、延元元年(1336)足利尊氏の大軍を
迎え撃つため京都を出発して兵庫に向かった楠木正成が
桜井の宿で嫡子・正行に遺訓を残して、河内に帰らせたとある。
この伝承は「桜井の別れ」として、後世の人々に広く知られ
絵や詩、歌の題材として多く取り上げられた。
1252911m.jpg


マウスオンして下さい。



マウスオン2枚です 
<


125294m.jpg

マウスオン2枚です 
<

楠木正成が軍旗を立てかけたとされる古木
125297m.jpg
125298m.jpg
所在地・・大阪府三島郡島本町桜井一丁目
続きを読む
  1. 2012/06/27(水) 09:24:26|
  2. 街道巡り
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

山陽道③   山崎宿

水無瀬神宮
承久の乱で敗れた後鳥羽天皇を弔うため生前こよなく愛された
水無瀬離宮跡に建てられた御影堂がはじめと伝えられる。
土御門天皇(後鳥羽天皇第一皇子)順徳天皇(後鳥羽天皇第三皇子)の
三天皇を祀る神宮。
往時の水無瀬離宮は、桜、山吹、菊の名所として知られ、
天皇は京の都から舟でたびたび離宮へ来ては歌合せ、蹴鞠、
狩猟や刀剣鍛錬等も行われたという。
z125271.jpg
z125274.jpg
マウスオン2枚です 
<

境内には全国名水百選に選ばれた「離宮の水」がある。
z125277.jpg

マウスオン2枚です 
<
所在地・・大阪府三島郡島本町広瀬 3-10-24
  1. 2012/06/26(火) 10:00:41|
  2. 街道巡り
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:6

山陽道の旅②   山崎宿

離宮八幡宮
貞観2年(860)に行教が宇佐八幡神を嵯峨天皇の離宮(河陽宮)に祀ったのが始まり。
平安時代にこの地で始まった荏胡麻づくりは鎌倉・室町時代にさらに発展し、
油座の本所となって全国の油の製造販売権を独占し、
油の代名詞として「大山崎」の地名が全国に知れ渡った。
125510.jpg

マウスオン2枚です 


マウスオン2枚です 


125513.jpg
所在地・・山崎町大山崎西谷 21-1


西国道道標
「右 西国道」で、元禄5年(1692)という古い物。ここを枡形に曲がる。
125516.jpg

125517.jpg


関戸明神
旧西国街道(現府道67号線)の京都・大阪の県境の大阪側に入った所にある。
古代から交通の要衝で、摂津と山城の国境に置かれた関所跡とも言われている。
創建された時期は不詳であるが、この境界地に祀られた関守神
または辻神(道祖神)が当社の起こりといわれる。
平安時代に関所が廃止された後は「関戸院」として
貴族や官人の宿泊施設に使われ、藤原道長や平家一門の人々が
利用したと記録に残る。
本殿は室町時代中頃に建てられたもの、
全体を覆屋で保護され、覆屋の前に吊り下げられている大きな提灯には
「関 大明神」と記されている。
クリック・3枚です。


<<
 所在地・・大阪府三島郡島本町山崎一丁目
  1. 2012/06/25(月) 08:54:02|
  2. 街道巡り
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

山陽道の旅①   京都

羅城門跡
延暦13年(794)の平安遷都の際に建造された丹塗りの楼門があった場所。
平安京の入口として、また内裏へと続く朱雀大路の始点でもあった。
天元3年(980)大風や嵐で倒壊し、相次ぐ戦乱によって荒廃した。
その様子は「今昔物語集」や芥川龍之介の小説「羅生門」にも
描かれている。
12551.jpg
12552.jpg


羅城門跡の入口にある矢取地蔵尊
平安時代初期、天長元(824)の夏
長い間雨が降らず、大干ばつとなった。
農民は大弱り、毎日雨乞いをしたが降らず
淳和天皇は民の苦しみを案じ、法力の高い東寺の弘法大師(空海)と
西寺の守敏大師(シュビンタイシ)に神泉苑での降雨祈祷を命じた。
先に名乗りをあげたのが守敏、だが17日間も祈祷を続けたが雨は降らなかった。
次に空海、もし降れば面目丸つぶれと、卑怯にも守敏は
雨を降らす龍神の動きを呪術によって止めていたという。
しかし、空海は少しも騒がず、天竺の無熱池に棲む善女龍王を勧請し
降雨祈祷を行い、みごとに3日3晩、雨を降り続けさせたといわれる。
これにより神泉苑において雨乞いの儀式が行われるようになったといわれる。
面目をつぶされた守敏は空海に恨みをもち、
羅城門の近くを通る空海を待ち伏せ、後ろから矢を放った。
その時何処からともなく一人の黒衣の僧が現れ、
守敏の矢を右肩に受け、空海は難を逃れた。
この身代わりに立つたのは、 実は僧でなく地蔵尊。
庶民の災難を救ってくれた空海を守ってくれたお地蔵さま、と
人々は堂を造り安置して、今でも香華たえないという。
地蔵の右肩には、今でも矢傷のあとが残っているという。
マウスオン2枚です 
<
 
所在地・・京都市南区九條

続きを読む
  1. 2012/06/23(土) 08:30:28|
  2. 街道巡り
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:5

清里

清里高原ハイキング
新緑の風を感じながら・・・
左上から→下→右下から上に

<バスを降りたら、ストレッチ>
<
<
<
<
<
<
<
<
<
<
<
<
<
<
<
<<<<<<
Sakuraさんのソースをお借りしました

続きを読む
  1. 2012/06/22(金) 09:02:10|
  2. ウォーク
  3. | コメント:7

鎌倉を歩く 東慶寺

岩煙草
日当たりの悪い湿った岩壁などに生える。
大きい葉っぱが煙草の葉に似ていて、
岩壁に生えるところから、この名前がついた。

クリック9枚です
<<
北斗さんのソースをお借りしました 続きを読む
  1. 2012/06/20(水) 16:28:21|
  2. 鎌  倉
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:5

鎌倉を歩く   東慶寺①

東慶寺
毎年、6月2日~15日の一日2時間のみ
本堂裏に咲く「岩がらみ」が公開されると聞いて
急遽、北鎌倉に行って来た。
1261425.jpg 1261445.jpg

すごい行列・・・
1261423.jpg

岩がらみを見る人の列だった。 1261421.jpg

岩がらみ  (ユキノシタ科 イワガラミ)
本州・四国・九州、朝鮮に分布する木本性の落葉ツル植物。
主にブナ林などの夏緑広葉樹林の樹幹や名前の通り、岩などに這い登って生育する。
茎は多数の気根を出して樹木や岩などに付着し成長する。
葉は対生し、長さ5~12cmであるが、大きさは変異に富み縁には荒い鋸歯がある。
花は枝先に花序を形成し、中心部には小型の両性花がたくさんあり、
周辺には1枚の白色の萼からなる装飾花がある。
ツルアジサイ(ゴトウヅル)に良く似ているが、装飾花が違う。
関東では珍しく、公開日には行列ができる。
クリック10枚です
<<
北斗さんのソースをお借りしました

公開時間が終わると・・・ 1261424.jpg
所在地・・鎌倉市山ノ内 1367   続きを読む
  1. 2012/06/18(月) 09:30:08|
  2. 鎌  倉
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:6

大江戸街歩き   上野~浅草⑧

祝言寺
江戸名所図絵に、祝言寺は良山存久和尚開山
往古江戸城の辺祝言村といへるにありて天文20年の頃太田道灌草創す。
天正の頃、山号を賜り又この地に遷さる」とある。
この寺は天正18年(1590)に徳川家康より万年山の山号と
松平家と同じ「丸に一つ葵」の紋所を賜り、
江戸城大手門前から後に、神田・日本橋を経て現在の浅草に移った。
祝言村とは、祝田村と同じ所と思われる。
道灌が築城地を探していたころ、祝田村に来て地名を聞き、
たいへん喜んでそこを築城地にしたという逸話がある。
a12051821.jpg
細長いボーダータイルを張ったユニークな山門
a12051822.jpg

a12051823.jpg
鐘楼兼永代供養堂
a12051824.jpg
丸に一つ葵の瓦
a12051825.jpg
所在地・・台東区松が谷 1-6-17


東京本願寺
浄土真宗東本願寺派の本山。
徳川家康の命で、東本願寺第12世教如が江戸神田道場・光瑞寺を建立したのが始まり。
その後、京都の東本願寺の別院になった。
明暦の大火後、現在地に移った。
広い寺域と多くの堂塔を持ち、横綱・若乃花の墓がある。
a12051835.jpg
所在地・・台東区西浅草 1-5-5

  1. 2012/06/17(日) 08:54:29|
  2. 東  京
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:5

大江戸街歩き   上野~浅草⑥

矢先稲荷神社
寛永19年(1642)11月23日、三代将軍徳川家光公が
国家の安泰と市民の安全祈願ならびに武道の練成のために、
江戸浅草のこの地に三十三間堂を建立した。
三十三間堂では、弓の射技練成のために「通し矢」が行われた。
通し矢は先人に勝てば堂に掲額できるとあって武士としての
名誉となり、大いに流行したようだ。
この通し矢は江戸市民にも観覧が許され、評判を博した。
京都の三十三間堂にならって建立されたこの堂の守護神として
稲荷大明神を勧請し、その場所がちょうど的の先にあたっていたので
「矢先稲荷」と名づけられた。約60年後の元禄11年(1698)9月6日、
浅草を中心とした大火で焼失してしまい、三十三間堂は
深川に移転を命ぜられたが鎮守であるこの社は、
信仰心の篤い町民の要望で産土神として再建が許された。
a12051817.jpg
所在地・・台東区松が谷 2-14-1


聖徳寺
創建年代は不詳だが、聖実清公上人が創建したと伝えられる。
徳川家康の関東入国翌年に、坪根沢から平河へ、後に大船、
馬喰町への移転を経て、明暦3年の大火後、当地へ移転した。
玉川用水を開削した玉川兄弟の墓所がある。
庄右衛門・清右衛門の兄弟は、玉川上水開削工事の請負者で
四代将軍将軍・家綱の承応2年(1653)1月13日に幕命が下り、
2月11日に着工され、工事費として幕府から7500両が下賜されたという。
羽村から四谷大木戸に至る43kmの導水部は、
承応3年(1654)6月20日に完成した。
その後、給水地域は順次拡大され、江戸城内をはじめ四谷・麹町
赤坂の高台などの山の手から、芝・京橋方面に及んでいる。
現存する玉川上水は、江戸時代初期の土木技術の水澤を
今日に伝える貴重な文化財である。
近世都市江戸の水道施設建設の功績により、
兄弟は200石の扶持を賜り、玉川上水役に任ぜられた。
また玉川という名字を与えられ、帯刀も許された。
a12051818.jpg
玉川兄弟の墓
a12051819.jpg  a12051820.jpg
所在地・・台東区松ヶ谷 2-3-3

続きを読む
  1. 2012/06/16(土) 14:13:56|
  2. 東  京
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

大江戸街歩き   上野~浅草⑤

曹源寺(かっぱ寺)
明暦3年(1657)の振袖火事(明暦の大火)の時に
本尊、諸尊像は無事に搬出したものの、諸堂宇は灰燼と帰した。
幕府より新寺町に境内地1651坪を拝領して移転した。
天明6年(1786)7月の大雨で下町一帯は洪水になり
湿地帯を造成した曹源寺付近は、船で往来したほどだった。
雨合羽の商いで財を築いた合羽屋喜八(通称・合羽川太郎)が
私財をなげうって排水のための掘り割り工事に着手したところ、
近隣に住む河童があらわれて工事を手伝った。
それからというもの、この地で河童を見た人は
不思議と商売がうまくいくようになったという。
合羽川太郎が作った掘り割りは今はないが
昔ながらの商店街や有名な道具屋街がにぎやかな下町。
掘り割りにかかる橋のあった場所は今でも
「かっぱ橋交差点」としてその名をとどめている。
a1205188.jpg

カッパの手・・・カッパって架空の生物でしょう? 本物なのだろうか?
マウスオン2枚です 



(⌒^⌒)bウ~ン    "(/へ\*)"))
マウスオン2枚です 
<

所在地・・台東区松ヶ谷 3-7-2


海禅寺
かつては、臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院で、大雄山と号し、
寛永元年(1624)神田明神の北、妻恋に草創。
振袖火事の後、現在の浅草に移る。
蜂須賀家の庇護あつく、世に「阿波様寺」と呼ばれた。
若狭小浜藩士で安政の大獄で獄死した梅田雲浜の墓がある。
a12051815.jpg
所在地・・台東区松ヶ谷 3-3-3
続きを読む
  1. 2012/06/15(金) 09:01:59|
  2. 東  京
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:5

大江戸街歩き   上野~浅草④

源空寺
円誉同阿が天正18年(1590)湯島に草庵を結び、多くの信者を集めた。
徳川家康も円誉に深く帰依し、度々江戸城に召いて法を聞いた。
慶長9年(1604)草庵の地に寺院を開き、開祖法然房源空の名にちなみ「源空寺」と称した。
二代将軍秀忠、三代将軍家光も円誉を重んじ銅鐘を寄進した。
明暦3年(1657)の大火に遭って類焼、現地に移転した。
この銅鐘は総高2m22㎝で、江戸時代の銅鐘としては大型である。
伊能忠敬、幡随院長兵衛等の墓がある。
a1205181.jpg

マウスオン2枚です 
<

マウスオン2枚です 
<

幡随院長兵衛夫妻の墓
a1205186.jpg
所在地・・台東区東上野 6-19-2


続きを読む
  1. 2012/06/14(木) 09:45:36|
  2. 東  京
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:3

大江戸街歩き   上野~浅草③

坂東報恩寺
建保2年(1214)下総国横曽根に親鸞聖人の第一の弟子・性信上人が創建
慶長7年(1602)江戸に移転したという。
その後、明暦の大火で浅草に移転、さらに文化7年(1810)現在地へ移転した。
毎年1月12日に行われる「俎(マナイタ)開き」は、性信に由来している。
四条流家元の手さばきにより料理された鯉が参拝者に振る舞われる。
境内には江戸時代の一流の鋳物師であった堀浄甫が慶安元年(1648)に
鋳造した銅鐘がある。
12051613a.jpg

12051614a.jpg
12051615a.jpg
所在地・・台東区東上野 6-13-13


法善寺
神田の名主で、江戸名所図会、東都歳時記や武江年表を刊行した
斉藤家の墓がある。斉藤家は美濃国の出身といわれ、
家康入府の時から江戸神田に住んで、雉子町の草分け名主として
六ヶ町を支配した。また、神田果物市場を監督して野菜上納のことを掌っていた。
代々市左衛門と称し、斉藤長秋とその子縣麻呂(アガタマロ)その孫月岑(ゲッシン)は、
三代にわたって、江戸の地誌を調べ、 「江戸名所図会」を完成させた。
「江戸名所図会」は七巻二十冊、江戸の風俗・行事・名所等を、絵入りで解説したもので、
前編が天保5年 (1834)後編が同7年に出版され、
挿絵は長谷川雪旦・雪堤父子の手による。
文・絵ともに実地踏査に基づいており、江戸の都市景観を知る上で貴重な史料である。
月岑は江戸年中行事を「東都歳時記」、江戸関係事項を「武江年表」と題し出版した。
いずれも江戸研究者必読の書である。
12051616a.jpg

12051617a.jpg
12051618a.jpg
所在地・・台東区東上野 6-17-3


今回はコメント欄を閉じさせていただきます。 
  1. 2012/06/12(火) 10:30:21|
  2. 東  京

大江戸街歩き   上野~浅草②

誓教寺
江戸後期の著名な浮世絵師、葛飾北斎の墓がある。
北斎は寄行に富んだ人で、住居を93回も移した。
嘉永2年(1849)4月18日、江戸浅草聖天町の長屋で
三女の阿栄(葛飾應為)に看取られて亡くなった。
北斎の墓は幕末まで父と合葬されていたが
後に他家の養子になっていた次男の崎十郎が現在の墓を建てたとも
その娘、白井多知が建てたともいわれている。
1205166a.jpg

1205167a.jpg
墓石正面に「画狂老人卍墓」と大書し
右側面に辞世の句「ひと魂で ゆく気散じや 夏の原」と刻まれている。
1205168a.jpg 1205169a.jpg
所在地・・台東区元浅草 4-6-9



永昌寺
永禄元年(1558)浅草の下谷に下谷長者が開創した寺。
寛永14年(1637)に現在の地に移ったが、近辺は大名屋敷が多く
肥前藩主・松浦壱岐守の妻、永昌寺が開基となった。
境内には「講道館柔道発祥之地」の碑がある。
講道館柔道の祖、嘉納治五郎は虚弱な身体を鍛えようと
諸流の格闘技を研究した末、日本古来の柔術を
心身鍛錬の方法としての「柔道」に確立した。
そして学習院教授時代に住まいを借りていた永昌寺境内に
明治15年、講道館を創設した。
門弟には「姿三四郎」の作者の富田常雄の父・常二朗
三四郎のモデルになった西郷四郎もいたという。
今や国際的にも認められた柔道は下谷の一寺院の境内から始まった。
12051611a.jpg

マウスオンして下さい。


12051610a.jpg
所在地・・台東区東上野 5-1-2
  1. 2012/06/11(月) 16:12:05|
  2. 東  京
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:3

大江戸街歩き   上野~浅草①   

上野駅から
a12051830.jpg


下谷神社
古くは下谷稲荷社と呼ばれていた。
例大祭で近隣町内を渡御する神輿は、台輪幅4尺1寸の
千貫神輿といわれ大きな威容を誇る。
社殿の天井画は、横山大観の作。
クリック・3枚です。
<<
また(1798)に初代・三笑亭可楽によって
この境内で初めて寄席が開かれた
1205164a.jpg
所在地・・台東区東上野 3-29-8


唯念寺
天文15年(1546)に品川で草創。
馬喰町への移転を経て当地へ移転。
塔頭の林柔寺の住職の子・月光院が六代将軍・家宣の側室となって
阿喜与と称し、後の七代将軍・家継を生んだことから
寺地拡張、御朱印領を頂戴した。
1205165a.jpg
所在地・・台東区元浅草 2-11-3
  1. 2012/06/09(土) 10:03:13|
  2. 東  京
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:4

お祝い

6月1日は夫の母の誕生日なので
いわき市の実家に行きました。
少し体調が悪いので、去年の末から入院しているのですが
いわき市の表彰式が病院の一室を借りて行われました。

いわき市の役人が6人も来て・・・
126414w.jpg

赤い帽子にチャンチャンコ
126415w.jpg

夫の兄弟5人が夫婦揃って全員集合・・
長男の妻と私の夫は逝ってしまっているので
長男の娘と我が孫息子が代理出席です。
126416w.jpg
ばあちゃんは、緊張して疲れた様子です。
いつまでも元気でいてほしい・・・ 続きを読む
  1. 2012/06/08(金) 17:52:39|
  2. 未分類
  3. | トラックバック:1
  4. | コメント:6

奥の細道129 大垣

むすびの地
元禄2年(1689)の秋、約5ヶ月の「奥の細道」の旅をここ大垣で終えた。
その折、芭蕉は蛤のふたみに別行秋そと、詠んで、
伊勢神宮の遷宮参拝のため
水門川の船町港から桑名へ舟で下った。
122239.jpg 122231.jpg

122233.jpg

122236.jpg
122234.jpg

122235.jpg

122238.jpg

122237.jpg


奥の細道をアップして二年半になります。
その間、東日本大震災、続いて原発事故が起り
現地の人たちが苦しんでいるのに・・と一時は旅行を止めようかと思いましたが
風評被害などが報じられて、旅行に行くことや現地の商品を買うこと
今ま通りに関わって行く事が支援になると思い直して、旅を続けました。
お陰さまで沢山の思い出が出来ました。
飽きずに拙いブログを見ていただいた多くの皆様、
そして温かいコメントを下さったブロ友の皆さまに感謝いたします。
街道シリーズは、中山道と奥の細道で取りあえず終りますが
これからも色々な所へ旅をして、ブログにアップして行きたいと
思いますので、今後共お付き合いください。

  1. 2012/06/06(水) 11:11:49|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:7

奥の細道128   大垣

大垣城跡
1222247.jpg

クリック・5枚です。
<<
北斗さんのソースをお借りしました

所在地・・大垣市郭町2-52
続きを読む
  1. 2012/06/05(火) 09:10:27|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:5

奥の細道127   大垣

大垣八幡
建武元年(1334)東大寺守護神の八幡神を手向山八幡宮より勧請した。
慶長11年(1606)大垣城主・石川政俊によって
幣殿、拝殿、舞殿などが建てられた。
1222230.jpg

芭蕉の句碑
冬ごもり塚
折々に 伊吹をみては 冬ごもり


大垣の湧水
1222232.jpg
1222233.jpg
所在地・・大垣市西外側町1-1

続きを読む
  1. 2012/06/04(月) 16:09:05|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:6

奥の細道126   長浜

木之本宿
北国街道と北国脇往還が交わる宿場町で
浄信寺の地蔵堂の門前町として、旅人と参拝客で賑わった。
北国脇往還とは、北国街道・木之本宿から中山道・関ヶ原宿の間
約35㌔の道で、北陸と東海を結ぶ最短の道として
昔から多くの旅人や荷物、大名行列が通った。

マウスオンして下さい。


クルック・6枚です。
<<
non_nonさんのブログの小技からお借りしました。

木之本地蔵尊
クリック・3枚です。
<<

122222.jpg  122221.jpg


弘法大師堂
マウスオン2枚です 
<


明楽寺  蓮如上人御蕃跡
マウスオン2枚です 
<
所在地・・滋賀県長浜市木之本町 
  1. 2012/06/03(日) 08:08:00|
  2. 奥の細道
  3. | コメント:4

クラシック・アナログ時計

プロフィール

すた

Author:すた
毎日笑って、楽しく過ごしたい!

カレンダー


カテゴリ

電力使用状況&電気予報

最新記事

最新コメント

月別アーカイブ

最新トラックバック

リンク

このブログをリンクに追加する

RSSリンクの表示

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR