すたのピンコロ日記

旅をして、美味しいものを食べて、毎日を楽しく!

浅草  

羽子板市
江戸時代、毎年12月17・18日に正月用品や
縁起物を売る店が境内に集まり「歳の市」と呼ばれ、
江戸随一の市として毎年大勢の人々で賑わった。
この「歳の市」は、現在「羽子板市」として残っている。
これは羽子板でつく「おい羽根」が害虫を食べる「トンボ」に似ているため、
悪い虫がつかないとか、またそのかたい「豆」(ムクロジ)の部分から
「魔滅(マメ)」にあてられ魔除けになる、
あるいは「マメに暮らせる」などの縁起を担ぎ、
江戸後期のころから女子の誕生した家に羽子板を贈る風習ができた。
それで羽子板を正月の縁起物として「歳の市」で扱う店が増えたという。
羽子板市1

羽子板市14

羽子板市15

羽子板市16

羽子板市1-1

羽子板市17

羽子板市18

羽子板市21

羽子板市19

羽子板市20

羽子板市22

羽子板市2 羽子板市3

羽子板市4 羽子板市6

羽子板市8 羽子板市5

羽子板市9 羽子板市11

羽子板市12

羽子板市23

一年間、沢山の方にご訪問いただいて有難うございました。
また温かいコメントをいただき、励みになりました。
来年も宜しくお願いします。
よいお年をお迎えください。

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  1. 2014/12/30(火) 10:05:38|
  2. 東  京
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九州の街道を巡る   薩摩街道~薩摩南街道  鹿児島

鹿児島神宮
創始は神武天皇の時に天津日高彦穗穗出見尊の宮殿だった
高千穂宮を神社としたものと言われているが不詳。
当社の北西13kmの地点には、穗穗出見尊の御陵とされる高屋山陵がある。

平安時代に宇佐八幡が九州各地に別宮を作ったのに伴い、
当社に八幡神が合祀されたともいわれている。
戦国時代から江戸時代には、島津氏の尊崇を受け
明治時代には、官幣大社、大隈国一宮だった。
全国正八幡の本宮で、宝暦6年(1756) 薩摩藩主・島津重年が再建した
県内最大の木造建造物。

一の大鳥居
マウスオン2枚です 
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鹿児島神宮3

社  頭
鹿児島神宮4

二の鳥居
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一番目の石段参道
鹿児島神宮9

神  橋 と 二番目の石段参道
鹿児島神宮7

境内社  雨之社
鹿児島神宮10

狛  犬
鹿児島神宮11 鹿児島神宮12

三番目の石段参道
鹿児島神宮13

参道の様子
鹿児島神宮14

龍宮の御亀石
鹿児島神宮19

社  殿
鹿児島神宮

勅使殿
鹿児島神宮16

拝  殿
勅使殿と本殿を結ぶように横向きに建っている。
鹿児島神宮18

境内社  武内神社と隼風神社
鹿児島神宮20

境内社  四所神社
鹿児島神宮21
所在地・・鹿児島県霧島市隼人町内 2496

  1. 2014/12/28(日) 10:08:46|
  2. 街道巡り
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九州の街道を巡る   薩摩街道~薩摩南街道  鹿児島

隼人塚
古代南九州の住民の熊襲(クマソ) 隼人の反乱に因んだ史跡。
高さ2㍍の丘の上に、五重石塔3基が立ち、
その周りに武人石像4体。
復元前は石塔はいずれも折れていた。
武人石像は四天王の石像で、復元前から立っていた持国天像、
明治時代後半に持ち出され、大正14年(1915)に戻された増長天像、
離れて埋まっていた広目天像、多聞天像である。

由来には諸説あり、大和朝廷に反抗して殺された
熊襲・隼人の祟り鎮めのため和銅元年(708)に造った。
養老4年(720)の隼人の反乱における死者の慰霊のために造った。
かつてこの地にあった、鹿児島神宮の戒壇所であった正国寺の仏塔の跡。
明治維新以降、廃仏毀釈で壊された仏塔や石塔を寄せ集めたという説などがある。
隼人塚1

マウスオン2枚です 
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隼人塚5

隼人塚8 隼人塚9

隼人塚10
所在地・・鹿児島県霧島市隼人町内山田 287-1

隼人塚に着く間際、バスが日豊本線の踏切を渡ろうとしたら
誰かが「あっ・・ななつ星が来た~」と叫んだ
あわてて バスの窓越しにシャッターをきった
七つ星
  1. 2014/12/26(金) 10:07:52|
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九州の街道を巡る   薩摩街道~薩摩南街道  鹿児島

ザビエル上陸記念碑
フランシスコ・ザビエルは東アジアへの伝道をめざしてリスボンを出航し、
インド・マラッカなどに渡り、途中飢饉や疫病に悩んだ末、
天文18年(1549)、日本に始めて上陸、キリスト教を伝えたのは、
現在の鹿児島市内の稲荷川河口あたりだった。
上陸地点の記念碑は祇園之洲公園の一角にある。
ザビエル1
ザビエル2
案内したのは、マラッカで一行に加わった鹿児島出身のパウロ・ヤジローだった。
ザビエル一行は、鹿児島で島津貴久の歓迎を受け、布教の許可を得た。
その後仏教徒の反対にあって10ヶ月で肥前の平戸に移った。
1551年、離日の時に鹿児島の青年ベルナルドも同行。
ベルナルドは日本人初の欧州留学生であり、
ローマ法王に謁見しポルトガルの修道院で学んだ。


石橋記念公園
鹿児島市の中心を流れる甲突川には、
江戸末期、肥後の名石工・岩永三五郎指導のもと建造された
5つのアーチ石橋が架けられていた。
なかでも西田橋は、城下の表玄関として豪華に建造され、
篤姫もお輿入れの時渡ったといわれる。
150年の間、現役の橋として県民に親しまれてきたが、
平成5年(1993)8月6日の集中豪雨で、2つの橋が流失してしまった。
残った西田橋・高麗橋・玉江橋の3橋を移設・復元して石橋記念公園を造った。

西田橋西田門
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西田門から眺める開聞岳
石橋記念公園4

石橋記念公園5

石橋記念公園8

薩英戦争記念碑
石橋記念公園13
石橋記念公園14
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薩英戦争砲台跡
石橋記念公園9石橋記念公園10

石橋記念公園15

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所在地・・鹿児島県鹿児島市祇園之洲町
  1. 2014/12/24(水) 10:05:55|
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九州の街道を巡る   薩摩街道~薩摩南街道  鹿児島


洞窟5
洞窟6


西郷隆盛洞窟
明治10年(1877)2月、鹿児島城下を出発した薩軍は
九州各地で転戦したのち、8月に解散。
西郷隆盛の一行は九州の山間地を越えて鹿児島を目指し、
9月1日、再び城下に戻り、城山に立て籠もった。
西郷が最後の五日間を過ごしたのがこの洞窟と伝えられている。
洞窟1洞窟4
洞窟3
所在地・・鹿児島県鹿児島市城山町


西郷隆盛終焉の地
明治10年(1877)9月24日未明、
城山を包囲した政府軍は一斉に砲撃を開始し、
薩軍は敵陣目掛けて岩崎谷を駆け下り、最後の抵抗をした。
西郷隆盛は腰と太ももに銃弾を受け、
この場所で別府晋介の介錯によって最後を遂げたと言われている。
終焉1

終焉2終焉3

終焉4
終焉5
所在地・・鹿児島県鹿児島市城山町 


南洲墓地
西南戦争が終結すると、鹿児島県令・岩村通俊は
官軍の許可を得て西郷隆盛らの遺体を鹿児島市内五か所に仮埋葬した。
明治12年(1879)、有志によってそれらの墓を現在地にまとめて改葬し、
その後、九州各地に散在していた西郷軍の遺骨も集めて
計2023名が葬られる南洲墓地となった。
南洲7
南洲8-2
マウスオン・クリック、3枚です 
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西郷隆盛の墓
南洲8-1
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南洲神社
西郷隆盛の偉徳を敬崇してその墓に参る者が年々増加したことから、
明治13年(1880)、墓地の隣に参拝所が設けられ
大正11年(1922)南洲神社として無格社に認定された。
昭和20年(1945)戦災で焼失し、同25年9月に再建された。
南洲神社2


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マウスオン・クリック、3枚です 
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写真1
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所在地・・鹿児島県鹿児島市上竜尾町 2

  1. 2014/12/22(月) 10:18:08|
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九州の街道を巡る   薩摩街道~薩摩南街道  鹿児島

鹿児島城
鹿児島城
鹿児島城1

鹿児島城2

鹿児島城3



鹿児島城5
鹿児島城6
マウスオン2枚です 
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  1. 2014/12/20(土) 10:04:48|
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九州の街道を巡る   薩摩街道~薩摩南街道  鹿児島

加治屋町
江戸期の加治屋町には鹿児島城下の士屋敷が多くあり、
鶴丸城から遠い位置にあったので主に下級武士が住んでいた。

江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した
西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、大山巌
などの出身地としても知られる。
大久保利通

戦災復興記念碑
復興碑1

大久保利生い立ちの地
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大山巌生誕地
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加治1

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東郷平八郎生誕地
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西郷兄弟生誕地
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西郷5
この庭石は、目黒の西郷邸より寄贈された
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二ツ家

甲突川
所在地・・鹿児島県鹿児島市加治屋町
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  1. 2014/12/18(木) 10:03:51|
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九州の街道を巡る   薩摩街道~薩摩南街道  鹿児島

知覧武家屋敷
知覧は薩摩の小京都といわれ、
生け垣と石垣が美しい武家屋敷が今も残っている。
地区内は石垣で屋敷が区切られ、沖縄によく見られる
石敢當(魔よけの石碑)や、屋敷入り口には
屋敷内が見えないように屏風岩がある。
他の地域の武家屋敷の石垣は野石乱積みが多いが
知覧の石垣はきれいな切石整層積みが中心で
石垣の上の見事な生け垣と共に清潔感あふれる風景をつくっている。
マウスオンして下さい。


知覧1
知覧2
 
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熊子さんのソースをお借りしました


マウスオン2枚です 
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所在地・・鹿児島県南九州市知覧町郡6198
  1. 2014/12/16(火) 09:59:13|
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九州の街道を巡る   薩摩街道~薩摩南街道  鹿児島

鑑真上陸の地
わが国律宗の始祖になった唐の高僧・鑑真和上が日本上陸の地。
諸宗の奥義を極めた当代随一の高僧・鑑真は、
聖武天皇の招きにより日本に渡航しようとしたが
当時の渡来は困難を極め、海上暴風や密航の差し止めなどのため
5回も失敗し、また疫病によって失明するという悲運にも遭っている。
それらの困難にも挫けることなく、ついに天平勝宝5年(753)、
当地に上陸を果たしわが国に仏教の戒律や薬学の知識などを伝えた。
鑑真1

鑑真2

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所在地・・鹿児島県南さつま市坊津町秋目


知覧に向かうバスの窓から開聞岳と茶畑
開聞岳1

開聞岳2
どこまでも続く茶畑
茶1

茶2
茶畑中にある、この風車みたいのは、何の役目?
茶3

  1. 2014/12/14(日) 09:56:16|
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九州の街道を巡る   薩摩街道~薩摩南街道  鹿児島

長崎堤防
「親がやろうとて行かれよか高江 高江三千石 火の地獄」の
歌があるように、かつての高江は川内川の汐が流入する
入江状の低水地で、ろくに米もとれない不作地帯だった。
第19代藩主島津光久は小野仙右衛門を奉行に任じ、
この地の大規模な干拓工事を命じた。
延宝7年(1679)に着工し、約8年の歳月を費やして
貞享4年(1687)に長崎堤防が竣工した。
その結果、この辺り一帯は300町歩(約3万平方キロ)にも及ぶ
立派な水田に生まれ変わった。
当時の工法はそのほとんどを人力に頼り、
その上度々洪水に襲われたため、大変な難工事だった。
仙右衛門は苦心の末、鋸の歯形の堤防を考案し、
ようやく川内川の激しい流れを抑えることに成功したが、
そこには仙右衛門の一人娘袈裟姫が人柱となって
身を投じたとの伝説が残っている。
近くには仙右衛門の功績を称える小野神社が祭られ、
川岸の雑木林の中にある岩には仙右衛門が刻んだ「心」の文字が残っている。
長崎1

長崎5

長崎3

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長崎6
所在地・・鹿児島県薩摩川内市高江町

  1. 2014/12/12(金) 09:38:57|
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九州の街道を巡る   薩摩街道~薩摩南街道  鹿児島

伊集院駅前にある島津義弘銅像

像


泰平寺
創立は境内の発掘から和銅元年であることは判明しているが、
詳細な史料が伝わっておらずその後の履歴は不明。
暦応2年、足利直義によって「利生塔」が泰平寺に建立された。
天正15年、九州征伐のとき豊臣秀吉がここを御座所として接収、
ここで島津義久と会見し、島津氏の降伏の舞台となった。
歴史が古い寺なので江戸時代にも藩主・島津氏の厚い尊崇を受けていたが、
寛政7年の火災及び明治2年の廃仏毀釈で全山破壊
歴代伝わっていた貴重な寺宝もほとんどが行方不明になった。
泰平1

マウスオン2枚です 
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泰平4

和睦石
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泰平10


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マウスオン・クリック、3枚です 
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所在地・・鹿児島県薩摩川内市大小路町 48-37

  1. 2014/12/10(水) 08:53:10|
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九州の街道を巡る   薩摩街道~薩摩南街道  鹿児島

出水麓武家屋敷

出水麓は、出水郷に赴任する薩摩藩士の住宅兼陣地として、
中世山城である出水城の麓の丘陵地帯を整地して作られた。
整地には、関ケ原の戦いの前年(1599)、本田正親が初代地頭に着任してから、
三代の山田昌巖の治世下まで、約30年かかった。
藩内で最も規模が大きく、藩内のほかの麓は、出水に倣ったといわれる。
出水は、肥後(現在の熊本県)と薩摩の国境の町として、
藩の防衛上重要な町であることと、一国一城制度下の
薩摩藩の外城制度(島津氏による、藩体制強化のための政治制度)により、
出水には数多くの薩摩藩士を郷士として住み着かせ、
藩境の防衛の任に当たらせた。
武家門・石垣・生垣や竹添屋敷などの建築物
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出水御仮屋門
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護国神社
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出水8

出水9

出水12

出水13

出水14

出水15

出水16

出水18

出水17

出水19

出水20

出水21

日本一のお地蔵さん
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出水22

諏訪神社
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大河ドラマ「篤姫」のロケ地ちなった宮路邸
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五万石溝跡
出水29
出水30
所在地・・鹿児島県出水市麓町
  1. 2014/12/08(月) 09:51:59|
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九州の街道を巡る   薩摩街道~薩摩南街道  鹿児島

野間の関跡
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野間1
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野間7

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所在地・・鹿児島県出水市下鯖町 2577


薩摩街道旧道
出水1

出水2

出水3

出水4

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境橋  (眼鏡橋)
出水6
出水5

  1. 2014/12/06(土) 10:01:24|
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九州の街道を巡る   薩摩街道~薩摩南街道  熊本

佐敷の町並み
古くから薩摩・肥後を結ぶ薩摩街道の宿駅として
又、球磨と天草を結ぶ水運の基地としても栄え、
熊本藩の茶屋・薩摩本陣、人吉藩の仮屋など多くの宿があり
加藤清正の時代には佐敷城には城代が置かれ城下町も整備されたが、
廃城後は薩摩の産物や球磨の産物等の交易する在郷町となった。
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佐敷1

佐敷2

佐敷3

佐敷4

佐敷5

佐敷6

佐敷7

佐敷8

佐敷9

佐敷10

佐敷11

佐敷12

徳富兄弟の生家
マウスオン2枚です 
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武徳殿
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マウスオン2枚です 
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所在地・・熊本県芦北町大字佐敷
 
  1. 2014/12/04(木) 10:21:45|
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九州の街道を巡る   薩摩街道~薩摩南街道  熊本

徳淵の津跡
前川(球磨川の支流)に面した一帯は、「徳淵津」と呼ばれ、
古くから国内外との交易が盛んに行われていた港。
徳淵の地名は、徳(財宝)の集まる淵(港)という意味。
ここは、薩摩街道上の要衝で「札の辻」と呼ばれ、
熊本城下から11里の距離であることを示す「11里木」や
高札場があった。
徳淵の津跡1
徳淵の津跡2

徳淵津は、その昔、海外からやって来た9000匹の河童が、
はじめて日本に上陸した地点と伝えられている。

河童渡来の碑
徳淵の津跡

マウスオン・クリック、3枚です 
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徳淵の津跡8

徳淵の津跡6
  1. 2014/12/02(火) 09:21:10|
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クラシック・アナログ時計

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