すたのピンコロ日記

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四国  宇和島街道  愛媛県

内子町八日市・護国の町並み
製蝋業を営む長屋棟が数多くみられ、黄みを帯びた漆喰で塗り込められた
重厚な外壁が特徴、漆喰壁を持つ建物は地区全体の70%を超える。
ほとんどの建物が切妻造の2階建てで軒線が通されていて、
海鼠壁、懸魚、鏝絵、虫籠窓、出格子、鬼瓦、鳥衾(トリブスマ)など多種多様。

江戸時代中期以降、大火に見舞われることがなく、
和紙と木蝋によって得られた富から質の高い町家が建てられた。
山裾の傾斜地にあったことから都市開発が遅れ、
結果として伝統的な建物が数多く残されることになった。
江戸時代後期から昭和初期にかけての様々な年代の伝統的建築物が
同じ町並みに共存しているのは全国的にあまり例がない。
内子1

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文久元年(1861)に分家した「上芳我家住宅」
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内子町の基礎を築いた本家「本芳我家住宅」
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内子32

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内子39
所在地・・愛媛県喜多郡内子町
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  1. 2016/03/29(火) 09:47:06|
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四国  宇和島街道  愛媛県

大洲の町並み
伊予大洲藩6万石の城下町として賑わった昔の面影を随所に残し
伊予の小京都と呼ばれ、明治~大正時代を思わせるしっとりした町並み
大洲13

大洲1

大洲2

大洲3

大洲4

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大洲商業銀行として使われたおおず赤煉瓦館
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大洲7

大洲8

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大洲10

おはなはん通り
おはなはん通り1
おはなはん通り2
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所在地・・愛媛県大洲市大洲
  1. 2016/03/26(土) 09:44:44|
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四国  宇和島街道を巡る  高知県

大洲城
伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点にあり、
東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道
西には大洲の外港とも言える八幡浜(現八幡浜市)があり、
大洲は歴史的には、ややひなびた立地ながらも交通の要衝といえる場所にあった。
宇都宮氏が創建した当初は、肱川と久米川の合流点にあたる
地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれた。
江戸時代初期、藤堂高虎らによって大規模に修築がなされ
伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していた。
大洲城1

大洲城2

大洲城3

大洲城4

大洲城5

大洲城6

二ノ丸跡
大洲城7

大洲城8

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大洲城10

大洲城11

大洲城12玉櫓跡
天守閣の礎石
大洲城13

大洲城14

大洲城15
所在地・・愛媛県大洲市大洲 903

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  1. 2016/03/23(水) 10:41:45|
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四国  宇和島街道を巡る  高知県

和霊神社
宇和島市街地の北端、鎌江城跡に鎮座し
宇和島藩家老・山家公頼(通称 清兵衛)が主祭神。
公頼は伊達政宗の家臣だったが、元和元年(1615)政宗の長男・秀宗が
宇和島に移封されるのに従い、家老として藩政を支えた。
宇和島はそれまでの領主の悪政により疲弊していたが、
公頼は租税軽減や産業振興を行い、効果を上げた。
しかし元和6年、藩主秀宗は公頼を嫉妬する藩士による讒言を信じ、
公頼とその息子らを殺害させた(和霊騒動)。

公頼を慕う領民たちは、密かに城北森安の八面荒神の境内に
小祠を設けて公頼一族の霊を祀った。
その後、公頼殺害に関与した者が落雷・海難などにより次々と変死し、
公頼の無実も判明したため、承応2年(1653)、秀宗は公頼を祀る神社を創建し、
山頼和霊神社と称した。
昭和20年(1945)に空襲で焼失されたが、昭和32年(1957)に再建された。
和霊神社1
和霊神社2 和霊神社3

和霊神社4

和霊神社5 和霊神社6
和霊神社7

和霊神社8 

和霊神社9

和霊神社10

和霊神社11

和霊神社12 和霊神社13

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和霊神社18

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和霊神社22

若宮神社
和霊神社20若宮神社

和霊神社21

和霊神社35
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神馬社
和霊神社25

田井神社
和霊神社26

山本神社
和霊神社27

和霊神社28 和霊神社29
和霊神社30

三島神社
和霊神社33 和霊神社34
和霊神社31
所在地・・愛媛県宇和島市和霊町 1451

  1. 2016/03/20(日) 09:40:16|
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四国  宇和島街道を巡る  高知県

卯之町の町並み
幕藩時代は宇和島藩の在郷町として栄え、
戦国時代には西園寺氏の松葉城の城下町だった。
比較的海岸近くに開けているその盆地は大洲と宇和島を繋ぐ宇和島街道が通るなど、
四国西部の交通にとっても重要な土地でもある。
その宇和盆地の中心に位置する卯之町は、宇和盆地で収穫された作物や
宇和檜の集散地として、また宇和街道の中継を担う宿場町として栄えた。
町内には江戸中期から昭和初期までに建てられた商家が並び、
白壁・うだつ・出格子といった伝統的な美しい町並みが続いている。
卯之町5

卯之町26

卯之町4

卯之町6

卯之町7

卯之町8

国の重要文化財・開明学校
明治15年(1882)に建築された、アーチ型の窓をもつ擬洋風のモダンな校舎。
卯之町9
卯之町10
所在地・・愛媛県西予市宇和町卯之町3-110

卯之町12

卯之町13

町医として活躍し、シーボルトの娘である楠本イネを
日本初の女医に育てた偉人・二宮敬作住居
卯之町30
卯之町29

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卯之町16

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卯之町20

卯之町21

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卯之町23

卯之町24

卯之町25

卯之町3

卯之町2

卯之町1

天保5年(1834)に、庄屋の鳥居半兵衛が建てたという鳥居門
卯之町27鳥居門

卯之町28

卯之町34

幕末の開国論者であった高野長英が隠れ住んだ家
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所在地・・愛媛県西予市宇和町卯之町

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  1. 2016/03/17(木) 10:38:44|
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四国  宇和島街道を巡る  高知県

宇和島城跡
藤堂高虎によって築かれた近世城郭。
標高74㍍の丘陵と、その一帯に山頂の本丸を中心に囲むように
二ノ丸、藤兵衛丸、代右衛門丸、藤兵衛丸、長門丸を中腹に配置し、
麓の北東に三ノ丸、内堀で隔てて侍屋敷が置かれた外郭を廻らせる
梯郭式の平山城で、東側に海水を引き込んだ水堀、
西側半分が海に接している海城(水城)。

五角形平面の縄張り「空角の経始(アキカクノナワ)」は
四角形平面の城と錯覚させる高虎の設計。
高虎の発想は、城を攻める側は当然方形の縄張を予想して攻めてくるが
実際は五角形だから、一辺が空角になる。
城を攻める側にとって、完全に死角になってしまい、攻撃は手薄になる。
また、この秘かな空角は、物資搬入口ともなり、
城から落ちのびる場合の抜け道ともなる

さらに本丸天守から、原生林の中を抜ける間道が数本あり、
西海岸の舟小屋、北西海岸の隠し水軍の基地などに通じていた。
現在は堀も海も埋め立てられ、昭和の空襲で大手門を焼失
現在は、天守(国の重要文化財)と上り立ち門(市指定文化財)の石垣が現存。
宇和島城跡1
本丸、二の丸に続く石段
宇和島城跡2

宇和島城跡3

宇和島城跡4

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宇和島城跡9
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宇和島城跡10

宇和島城跡11

宇和島城跡12

宇和島城跡13

宇和島城跡14

宇和島城跡15
三之門跡あたりの石垣
宇和島城跡17

宇和島城跡18

宇和島城跡19
二ノ丸跡
宇和島城跡20
御算用矢倉跡
宇和島城跡22
本丸に続く一之門跡
宇和島城跡24

宇和島城跡26

天守からの眺め
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宇和島城跡33

宇和島城跡34

宇和島城跡36
宇和島城跡35

宇和島城跡37

宇和島城跡41
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南側登城口城門の上り立ち門現存する薬医門としては最大級。
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上り立ち門の所に建つ児島惟謙像
宇和島出身で大審院長として司法権の独立を守りぬき
「護法の神様」といわれた。
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所在地・・宇和島市丸之内一丁目



  1. 2016/03/14(月) 10:36:54|
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四国  梼原街道を巡る  高知県

龍馬脱藩の道
文久2年(1862)3月24日、坂本龍馬は、自宅を出発。
途中、沢村惣之丞と落ち合い一路西へ
25日、佐川の斗賀野から土佐国内最大の難所・朽木峠を越えたものと思われる。
梼原に着いた龍馬と惣之丞は、那須俊平・信吾の家に宿泊した。
26日昼頃、龍馬、惣之丞、俊平、信吾の4人は、
土佐と伊予の国境・韮ヶ峠に着き、龍馬、惣之丞、俊平の3人は
韮ヶ峠から小屋村へと駆け下りて行った。
午後2時頃には3人は榎ヶ峠を通ったと思われる 。
河辺村の国木を経て神納へ・・
屋根のある橋、御幸の橋を通る。
横通りを過ぎ、封事ヶ峠を越え、峠をでると三杯谷
三杯谷から坂道を上がると日除。水ヶ峠から宿泊地・泉ヶ峠
26日夜、3人は脱藩後、伊予路での第一夜を、泉ヶ峠で過ごした。
27日朝早く泉ヶ峠の宿を出て、舟着き場 宿間村の亀の甲へ
龍馬と惣之丞は、宿間から長浜まで舟の旅。
ここで道案内人の那須俊平は梼原へ引き返す。
龍馬が乗った舟は正午頃大洲に着き、志保町あたりで昼食をとり
再び舟に乗って肱川を下った。
二人の乗った舟は肱川の河口、長浜の江湖に着いた。
27日夜、脱藩後2日目、四国路の最後の夜、龍馬と惣之丞は、
豪商の冨屋金兵衛邸で過ごした。
28日早朝、2人は長浜を出発、長州へ向かう。
28日夕方、船は風に乗り、瀬戸内海を越え、長州の上関に着いた。
29日朝、上関を出発した船は、その夜、三田尻に着いた
4月1日、下関の白石正一郎方に着いた。ここが脱藩の道の最終地点である。
脱藩の道

脱藩の道1

脱藩の道2

脱藩の道3

脱藩の道4
所在地・・高知県高岡郡梼原町梼原


維新の門群像1
和田城を模した
維新の門群像2

維新の門群像12

梼原町中心部の和田城跡の丘の上にある 維新の門群像
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維新の門群像3

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掛橋和泉  28歳
この地で神官の家に生まれ、 勤王の志士たちに
いろいろと力を貸したが、家のことを思って叱る母との板挟みに、
ついに銃を使い自殺して果ててしまった。
維新の門群像6

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所在地・・高知県高岡郡梼原町川西路 2352-1


  1. 2016/03/11(金) 09:34:58|
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四国  中村街道を巡る  高知県

東津野村新田の町を見下ろすように建つ 吉村虎太郎像
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吉村虎太郎生家
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吉田8

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生野早瀬の一本橋
この橋は「四万十の川辺八十八ヵ所 上流の川辺」の80番目。
四万十川の沈下橋の原型といわれる橋で、流れ橋ともいう。
長さ9メートル、幅60センチ、厚さ30センチほどの木の板3枚の橋で、
出水時には、陸に繋がれた橋桁の木自体を橋脚から外して流れに任し、
流出を防いでいる。出水が治まれば、一旦上流に運び、
流れに乗せて橋脚へ引き上げ、再び橋となる
地域の人々同士の協力無くしては維持できない生活財で
古来より地域間の行き来のため重要な役割を担ってきた。

吉田12

吉田13

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吉田16
所在地・・ 高知県高岡郡津野町芳生野甲
  1. 2016/03/08(火) 10:16:46|
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四国  中村街道を巡る  高知県

足摺岬
太平洋に突き出る足摺半島の先端の岬。
東の室戸岬と向かい合う、四国最南端の岬
岬端は80㍍の海食断崖がそびえ、その西の白山神社の下にある
白山洞門は花崗岩の海食洞門としては日本一。
岬には代表的な亜熱帯植物であるビルー樹が自生する。
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足摺岬15

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足摺岬21

足摺岬22

足摺岬23

足摺岬24

足摺岬25

天狗の鼻
足摺岬26

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足摺岬28

足摺岬29

足摺岬30

足摺岬31

足摺岬33

足摺岬32

足摺岬35

足摺岬34
所在地・・高知県南西部土佐清水市

  1. 2016/03/05(土) 10:16:11|
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四国  中村街道を巡る  高知県

金剛福寺 
弘仁13年(822)、嵯峨天皇から補陀洛東門の勅額を受けた
空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで
堂宇を建て安置し開創したという。
空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて
東に向かって投げたといわれる五鈷杵は
足摺岬に飛来したといわれている。
歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、
源満仲は多宝塔を寄進、その子頼光は諸堂を整備した。
平安時代後期には観音霊場として信仰され、
後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣している。
鎌倉時代後期(建長から弘安期)には南仏上人が院主となって再興したと伝えられ、
阿闍梨慶全が勧進を行ったとも伝えられている。
室町時代には尊海法親王が住職を勤め、
幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた。
戦国期に一時荒廃したが江戸時代に入って土佐藩2代藩主山内忠義が再興した。
金剛福寺1

金剛福寺2

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本 堂
金剛福寺4

金剛福寺5
金剛福寺6

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金剛福寺9

金剛福寺10

金剛福寺11

金剛福寺12

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金剛福寺16
金剛福寺17

金剛福寺18

金剛福寺19

金剛福寺20
所在地・・高知県土佐清水市足摺岬 214-1

  1. 2016/03/02(水) 10:13:44|
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